賢い鳥2
他と違い元に戻れない永瀬がごまかし笑いするのを享は無視した。
「片付け、手伝ってくる」
勝田が引きとめようとしてもひらりとかわして座敷を出て行った。
故意か違うのかと言われれば、故意だ。うっかりで三つもグラスを割ったりしない。
でも、何故そうしたのか説明もできなかった。
人気のない廊下を歩きながら乱暴に頭をかきむしる。
初招集祝いの悪戯を妨害することに意味なんかない。誰も彼もが一度はやられるのだ。最初は気を悪くすることも多いが、思いっきり笑われているうちに気がほぐれてどうでも良くなってしまう。そういう儀式だ。
享だって自分が悪戯をする側に回らないだけで冗談が分からないわけじゃない。みんな男だし、一緒に風呂だって入る。過去に見てきた悪戯の中ではマシな方だと思う。享だったら怒鳴りもしないかもしれない。それこそ児童の悪戯を受け止める小学校の先生みたい大人の対応で、永瀬に「飛鳥くんつまんない」なんて言われて。
冷静に考えれば考えるほど、あの時沸き起こった衝動の正体がつかめなくなった。
「タカ!」
振り向いた先にいる享の渋い表情に舌打ちが出た。露骨に嫌な顔をされる。
「話がある」
「永瀬からは聞いてねえのかよ」
「お前に話があるんだ」
遠くから人の足音がした。ため息をひとつ吐いて近くの部屋に享を引っ張り込んだ。邪魔が入らないほうがいいと思ったんだろう。享も何も言わなかった。
「あれは何だ」
「あれって」
「永瀬も、……お前も」
灯りをつけない部屋の中で享の表情が動いたのがかろうじて分かった。それがどんな風かはわからない。怒っているのかも知れない。
「永瀬だけじゃねえよ。勝田も仕掛け人」
「タカも?」
「巻き込まれそうになったけど俺は断った」
「どういう事か分からない」
「……代表初招集の時にはみんなやられんだよ。ネタはバリエーションあるけど、一発悪戯されて親睦深めてからは遠慮せず意見し合おうっつう恒例行事になってんだ」
「なるほど。そういえば今回初招集って言ってた杉下と広川が夕飯の時に変な顔してたな」
「杉下や広川のことは知らねえけど、大体同室のやつが仕掛けるんで、永瀬が俺に協力するようには言ってきた。でも断ったから関係ねえ」
ちょっと考えるような間があった。
「じゃあ、グラスを割ったのは?永瀬たちも驚いてた」
「…………」
「誰でもやる恒例行事なんだろ?俺を助けたつもりなのか?」
「……そういうわけじゃねえよ」
「別にあれぐらいなんてことないおふざけだろ。邪魔する方が野暮だ」
「うっせぇな。助けたわけでも邪魔しようと思ったわけでもねえっつうの」
「じゃあ何で……」
「知らねえよっ!」
享の頭のすぐ脇の壁に拳を叩きつけた。顔が近いおかげで表情が読めるようになった。怒りとか怯えじゃない。頼りない、戸惑いが見えた。
綺麗に舗装された道を歩いていたら突然足元がブヨブヨした得体のしれない何かに変わって掴まるところを探しているような。でも、目の前にいる瑛には掴まれない。得体のしれない何かは瑛自身だからだ。
沈黙によろめくみたいに、吸い寄せられるみたいに、瑛の唇が享の唇をふさいだ。
緩慢な瞬き一回分の時間。押し当てられただけ。
両肩を掴んで力いっぱい引き離した。たったそれだけのことで息切れするような気がした。
「なんのつもりだよ」
「……いや、その、わりぃ」
自分がしたくせに、瑛のほうが突然の事態に訳がわからないという顔で瞬きを繰り返している。
享はハッとして部屋の入口と窓を顧みた。
「……どうした?」
どちらもきっちり閉められている。二階の部屋の外に見える木に誰かが登っているなんてこともない。
「これも、恒例行事の延長じゃないのか」
「違う!」
「じゃあ説明しろよ!分かるように!何でグラスを割ったのか。それから、今の……キ、キス」
消え入りそうな尻すぼみの声も誰もいない部屋の静寂のおかげで聞き取れてしまった。腹の底のもっと奥が熱い。内側から叩きつけるような感情が一気に膨れ上がった。
今の今まで説明できなかったことを全て説明できるようになってしまった。
それと同時に、気安く手を伸ばせなくなった。顔に触れたかったのか、抱きしめたかったのか。とにかく触りたくて浮いた手が悪いものみたいに感じられてきつく拳を握りしめて、体側に下ろした。
「わりぃ」
繰り返すと享は頭を強く振って部屋を出て行った。
「もういい」
引き止めて弁解したかった。でも、弁解のしようがなかった。
享の周りにいる誰かへの嫉妬も、唇に触れたくなったのも全てストレートな欲求だからだ。他に理由なんてない。
享のことが好きだという、ただそれだけ。