賢い鳥2
初めての女と付き合ったのは中学二年のときだ。
小柄で可愛い顔をした、となりのクラスの女だった。当時はまだ付き合うということがどういうものかよくわかっていなくて、でも悪い気はしなかったから告白を受け入れた。
言われるままに一緒に出掛けたり、暇なときには放課後に一緒に残って喋ったりした。しろというから手もつないだしキスもした。
でも、それも二ヶ月ぐらいで終わった。イライラしているとすぐ顔にでるせいで怖いと言われて。自分から告白してきたくせに怯えた顔をするのが腹立ったが、惜しい気持ちはなかった。簡単に別れを承諾したら傷ついた顔をされた。理不尽だと思う。
二人目はその翌年。可愛いというより美人で男友達も多いサバサバしたタイプだった。元々は友達で、友達付き合いは楽だったからその延長のつもりで付き合い始めた。これも向こうからだ。
友達だった頃から都合が合えば一緒に帰ることもあったし、サッカーで忙しいのも知っていたから「邪魔にならない程度でいい」というのが最初の約束だった。正直言えば女と付き合っている場合ではなかったし、代表に呼ばれるようにもなってますます忙しかった。でも、友達関係が壊れるかもしれない不安を抱きながら軽い提案を装って告白してきた彼女が可愛く見えたのだ。
最初は良かった。合宿なんかで離れている時にもメールや短い電話をしたし、会えるときはもっと恋人らしく過ごせていたと思う。
上手くいかなくなったのがいつ頃からかはわからない。自覚がない。急に彼女がめそめそしだして、「今まで我慢していたけど寂しい」だの「私のこと本当に大事?」だの言うようになった。鬱陶しくて、ついつい「急になんなんだ」と声を荒らげてしまった。
「急じゃない。本当は元からこういう性格だった。瑛はちゃんと私のこと見ててくれなかったから気付かなかったんだよ」
詐欺だと思う。自分から別れをきりだしても良かったが、何もかもが面倒で、放っておいたらじきに向こうから「新しい好きな人ができたから」と言われた。
その後、俺がユースを蹴ってわざわざ高等部から鎌倉学館に入ると知った女が何を勘違いしたのか「私のせい?」なんて言ってきたが、その思考回路がさっぱり理解出来ない。きっぱり「ありえない」と教えてやったら、またここでも傷ついた顔をされた。
女は面倒くさい。面倒くさいと知りながら胸とか尻とか甘ったれのふっくらした顔なんかで迫られると弱いのだから、男もどうしようもないなと思う。
でも、当分女なんかにかまけている暇はない。性欲は自分でどうにでもできるし、恋愛感情なんかもっとどうでもよかった。振り返ってみれば二人の女のどちらにも夢中だったことはないと思う。恋愛で馬鹿になるヤツの気がしれない。
そう思っていた。
「モロにシカトッスね」
背後から急に声がして内心びくつくのを必死で隠して頬杖をつき直す。
「何の話だよ」
「飛鳥さんに今シカトされたでしょ。ちょうど近くにいたから見ちゃった」
「知らねえよ」
そんなにあからさまに享を見ていただろうかと心配になる。わざとそっぽを向いて享を視界から外した。
「今日ずっとそうじゃないッスか。露骨じゃねえけど上手に鷹匠さんだけ避けてますよね」
「……」
「飛鳥さんに何したんスか」
「……何もしてねえよ」
否定しても傑は信じていない様子だ。バツが悪くていつもの睨みも出ない先輩の顔を無言で観察して勝手に何か納得している。度胸が据わっているところも観察力のあるところも頼もしいエースだが、今ばかりは恨めしい。
「シカトだなんだって言っても練習中は普通なんだから問題ねえだろ」
それもそれで面白くないが。飛鳥享はこの代表チームイチ“公私混同”という言葉が似合わない。スイッチのオンオフみたいにキッチリしている。だから昨晩の出来事も全て水に流して選手として仲間として接してくれる。のだが、ひとたび休憩時間に入ったり、一日の練習が終わって宿舎に引き上げてくるとこれだ。
人の輪を盾に瑛を近づけない。今もひっきりなしに誰かが側にいて話しかけていた。
「まあ、そこんトコは心配してないんすけど」
「なら、俺らに何かあってもお前には関係ねえんだし放っとけ」
瑛が顔を背けている傍らで傑は無遠慮に享を窺い見る。そこで目が合って、やっぱり逸らされた。
「……そッスね。鷹匠さんが何やらかしたのかなんて俺には関係ないし」
やっと先輩いじりに飽きたのか立ち上がる。
「飛鳥さんとこ行ってきます」
「はぁ?!」
うっかり大きな声が出て一瞬注目を集めてしまった。
「だって俺は飛鳥さんと喧嘩してねーもん。鷹匠さんが避けられてんのも俺には関係ないんでしょ」
言うが早いか料理の皿で賑わう長机をぐるっと回って反対側の島にいる享に突進していく。それを止める言葉や理屈を思いつくより先に傑は享の目の前に腰を下ろしていた。
享は内心後ずさりたいのを必死で隠して箸を持ち直した。
人懐っこい笑顔の逢沢傑が目の前に腰を落ち着けて、まだ食べ終わらない夕飯のラインナップを眺めている。まったく同じメニューを傑も食べているので目新しい物などないはずだが。
「飛鳥さん、黒豆貰ってもいいッスか?」
残っていたとはいえ遠慮なく指さしたのは黒豆を甘く煮たものだ。箸も付けていない。
「ああ。実を言うと苦手で困ってたんだ」
その辺に置かれている使用者不明の箸を平気で借りて美味そうに一粒食べた傑が頷いた。
「やっぱり。もしかしてこういうのもダメかなって思ったんスよ」
「……こういうの、も?」
「つぶあんダメなんスよね?鷹匠さんに聞きましたよ」
当たり前に飛び出した名前にこっそり唇をかむ。さっきこちらを見て何か話していたのはこのことだったのだろうか。
「あ、聞いたってのは今回じゃなくて、前に大福の話してたときにポロッと出てきただけで、馬鹿にしてたんじゃないんで誤解しないでください」
「大丈夫。そういうヤツだとは思ってないよ」
安心させるように笑顔を作る。
「豆の形があって甘いのがどうしてもダメなんだ」
「甘納豆とかも?」
「食べたことがないけど、多分無理だな」
「羊羹とかこしあんは?」
「食べられるけど、そもそも和菓子が得意じゃないからな」
「じゃあ困ったら俺が食べますよ」
小学生みたいに手を上げてアピールする。手の中の小さな器はもう黒く濁った甘い汁しか残っていない。
箸と器を戻して丁寧に手を合わせる姿が育ちの良さを感じさせる。
「俺たち代表以外じゃ共通の知り合いがあんまりいないせいか、鷹匠さんてよく飛鳥さんの話するんスよ。だから実際より親しいような気分。一方的ッスけど」
「俺も色々聞いてるよ。甘いモノが好きだとか」
「うわ、マジっすか。黒豆狙ってガッついたみたいで恥ずかしいな」
「違う?」
「そうッスけど……」
二人で空気を弾ませて笑った。
「あの人、ああ見えておしゃべりッスね」
「そうでもないさ。熱心に聞かされたのは逢沢のことぐらいだよ」
素直に照れる表情が幼い。練習中や試合での鋭さとリラックスした子どもっぽい顔のギャップが彼の、人間としての魅力だ。