賢い鳥3
PKで決着した試合だから勝った試合と言い切るのも据わりが悪いが、真屋の知るかぎりでは鎌倉に負けた決勝よりよっぽど江ノ島との試合に固執している。
「決勝の録画も見てるさ。ただ…江ノ島との試合は納得いかないところがあって」
「……逢沢か」
後輩たちの手前、逢沢駆が倒れて交代になった後も、試合の後も、決勝を終えて大会が終わってからも何でもない顔を貫いている享がずっと何かを考えているのには気づいていた。
試合前の計算違いについて納得行くまで分析しているのだと思っていたけれど、こんなに一つの試合を引きずるのも珍しい。
「もし冬も当たったとして、逢沢がガス欠せずあのプレイを続けたら怖いよな」
「ガス欠……か」
「じゃなくて事故の後遺症って言ってたか?鬼丸の話じゃ、U-16の代表候補合宿では荒木よりよっぽど持久力あったらしいじゃないか」
江ノ島と対戦した県予選の頃よりも暑い中でも体調を崩すことはなかったと聞いている。
「……なんにしても、次もあのプレイが出るとは限らない」
「どういう意味だよ。一瞬の偶然にしちゃあ長い一瞬だっただろ?」
例えば思わずふらついたのがフェイントになっただとか、そういう奇跡とは違う。もし、奇跡だったとしても、真屋の言う偶然とは種類が違った。
「そんな気がするっていうだけだよ」
動きまわる選手たちの中で立ち止まった白と青のユニフォームが地面に崩れ落ちる姿が映し出される。直前に誰かと接触して倒れたまま起き上がらないのではなくて、突然倒れこんだ。
仲間が駆け寄って主審が駆け寄って、逢沢駆が担架で運び出される。
あの時、意識を手放して目を閉じた逢沢駆は幼く見えた。
夏が終わるとあっという間に冬の予選が始まる。
江ノ島高校の一回戦で瑛率いる鎌倉学館のレギュラー数名の姿を見た。対戦校の経政大付属湘南には代表で瑛とツートップを組んでいた秋本もいたが、目当ては江ノ島の方だろう。予想は外れず江ノ島は二回戦に進んだ。
それから間もなく、鬼丸の代表活動の件で訪れた平塚で、女子代表の美島奈々と練習している逢沢駆と会った。小学校では同じチームで、高校の今も美島はなでしこ活動の傍らで逢沢の所属するサッカー部のマネージャーをしている。
逢沢傑と美島奈々。二人の天才に囲まれてサッカーをしてきたと思えば近年の試合だけでは計算しきれないのかもしれない。計算外の幅が大きくたって不思議はない。
でも、萎縮している間に美島に仕切られている様子には何も感じない。兄のような頼もしさや、底知れない雰囲気や、今の荒木が背負っているような“波”の気配も。
担架で運び出されるときと同じ幼い顔が本質だ。きっと次こそ完全な形で勝てる。江ノ島の二回戦の相手を考えれば次があるかもわからない。見立てを鬼丸に話す一方で、もう一度逢沢駆に奇跡が起こる姿は脳裏に居残り続けた。
その執着が原因だろうか。準決勝で江ノ島と同じグラウンドに立つことが決まり、トラブルで江ノ島のエース荒木がキックオフに間に合わないと知らされても胸騒ぎがした。
結果――――夏を彷彿とさせるPK勝負で葉蔭学院は敗退した。
逢沢駆に奇跡は起こらなかった。恐らく鬼丸と一緒に遭遇した美島との練習で身につけた新しいフェイントで、幼く頼りないと思った本質の部分で負けた。
――――小さな液晶モニターに表示された名前を確かめてゆっくりと電話をとった。
「珍しいな、連絡よこすなんて」
『……あんまり落ち込んでねえな』
「まさか慰めるつもりだったのか」
『ふざけんな』
「ふざけなくたってそう聞こえるセリフだろ」
僅かな沈黙が電話の向こうの渋い顔を思わせて小さく笑った。
「心配してくれるのはありがたいけど、落ち込むよりすっきりした気持ちが勝ってるんだ」
『心配なんかしてねえよ』
「そういうことにしておいてやるよ」
『フンッ』
「それに、負け惜しみに聞こえるだろうけど、お前と江ノ島の試合も見たかったんだ」
『……今日の試合でも“何か”あったのか』
「いいや」
何のことか追求しないまま即答した。
「今回は本当にお前の、…俺達の望むようなことはなかったよ。なかったけど、でも、傑が待っていたものは多分わかった」
『……』
「決勝、楽しみにしてる」
何か考えている気配を感じながら返事を待たずに通話を切る。それから少しだけ、両手に顔を埋めた。
決勝らしい熱気の中で鎌倉学館と江ノ島高校の試合が始まった。
江ノ島の攻撃から始まったもののあっという間に鎌倉優勢になった。想像の範囲内だ。江ノ島は退場者を出して更に追い込まれた。怒涛の前半二十分。鎌倉が二点先取した直後、滑りこむように隣に陣取っていたレオナルド・シルバが呟いた。
「始まった……カナ」
スタンドからは選手たちの表情が見えない。会話も聞こえない。
何がとは言わなかった。彼ももういない傑に執着しているのを知っていてから。
葉蔭学院の仲間と固まって座った席に割り込んできた時、シルバは三人目当てがいると言った。一人は荒木。二人目は駆。三人目には、瑛の名前は挙がらなかった。はぐらかされたままだ。
それでも逢沢駆の動きが変わってから前のめりになった姿勢を見れば三人目が誰か分かる。至宝と呼ばれながら日本の高校サッカーへ乗り込んできた男も同じなのだ。もうこの世にいないはずの傑に執着して、まったく別人だとわかっている弟に妙な期待をかけている。
違うことといえば、彼は何か確信を持って日本にいるらしいということだ。逢沢駆の変化を当然のことのように待ち望んで受け止めているように見えた。
駆の本質からかけ離れた、夏に見たドリブル。
納得しがたい逢沢のプレーを彼自身の潜在的な持ち物として見つめた。今度は倒れることもなかった。
分析肌のせいか目の前にあって説明のできないものというのが苦手だった。
そのくせ期待しているのはオカルトちっくな何かだ。混乱する。
自分の高校最後の試合では常にブレのない逢沢駆本人だった。
決勝の舞台で対面した瑛には何か見えただろうか。
広い墓地の中で墓石が夕日を浴びて濃い影を作る。
黄昏は薄暗くなって人の顔も見分けられなくなり「誰そ彼」というところからきていると聞いたことがある。
確かに、人間違いもしやすそうだ。生きている人間以外の何者かが紛れ込んでもわからないかもしれない。
でも、冬に向かう夕方の墓地には紛れるほどの人がいなかった。
霊園入り口で捕まえた制服姿の瑛は黄昏でも分かる穏やかな顔をしていた。
「何してんだ、こんなところで」
「待ってたに決まってるだろ」
「墓の場所がわからなかったんなら住職に訊けよ」
なんなら案内してやる、と墓に戻ろうとする腕をつかむ。
「墓参りに来たんじゃない。タカを待ってたんだ」
「……」
「どうせここに寄るだろうと思って」
「……まどろっこしい。用があるなら携帯に連絡すりゃいいだろ」
吐き捨てながらもゆっくり霊園を出た。話しながら歩くためのスピードだ。
ルートは違うけれど、鎌倉駅までの道を二人で歩いた夏の日が懐かしい。
「試合、見たよ」
「ああ。知ってる」
「ユニフォーム、逢沢にやったんだな」
「元々あれは傑のもんだ」