ピジョンエクスプレス
水滴が大量についてもはや使い物にならなくなった眼鏡をかけた顔で眼鏡の男、びしょぬれの背の高い男、やっぱりびしょぬれの小さい男はマヌケな声をあげた。窓の開け閉めの議論に夢中で通路を挟んだとなりの席の連中のことなんてすっかり忘れていたからだ。
四人はいっせいに彼らの方向に顔を向けた。
「……」
「……寝てるな」
「……寝てますね」
「……こんなに風がゴウゴウなって雷まで光っているのにのんきな人たちだ」
向かい側の席の窓はもちろんしっかり閉まっている。そして三つ子が三人で同じイスに並んでぐーぐーといびきを掻いて、気持ちよさそうな顔をして眠りこけている。こっちがあんなにギャーギャーさわいでいたのに。
四人は三つ子の向かいの席に視線を移す。また雷が光った。そこに遅れてきた男のシルエットが映し出される。
「…あ」
「一人起きている人がいましたね」
「たしかに起きてはいますけど」
「あー、やめとけ。そいつには何を言ってもムダ」
遅れてきた男は微動だにせずただ席に座っていた。相変わらず明後日の方向を見つめていて何を考えているのかわからない。
「…大丈夫かなぁ」
「手伝ってもらいましょうよ」
「まぁ無理だとは思いますけど」
「まぁヒマつぶしにはなるか…よし、アンタが頼んでこい」
「僕が?」
「いつものパターンから考えて私達が言ってもムダでしょう」
「そうですね、カケルさんならあるいは」
「よし、やってみます!」
「おう、まかせたぞ」
カケルは遅れてきた男の前に進み出た。二人が対峙する。雷がまた光って二人のシルエットを映し出した。見守る三人はごくっと唾を飲む。
「あ、あのう…」
カケルいかにも自信なさげに声をかけた。
「おいおい、大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないかもしれませんね」
「大丈夫だよ。カケルさんならできるよ」
また雷が光る。
「ま、窓を…窓を閉めてもらえないでしょう…か」
カケルは自信なさげに続けた。遅れてきた男は微動だにしない。やっぱだめかなぁ…っていうかこの人調子狂うなぁとカケルは思った。
「やっぱりだめか」
「まぁだめでもともとでしたし…」
背の高い男と眼鏡の男はやっぱりという顔をしてがっくりとうなだれた。
が、次の瞬間、小さな男が叫んだ。
「あ! 立ちましたよ!!」
「えっ!?」
また雷が光った。二人の男が顔を上げたとき、遅れてきた男がカケルと向かい合って立っているシルエットが映った。
そして遅れてきた男はぐるんと顔を開いた窓の方向にむけると、身体を翻し、ずかずかと窓の前まで歩いてきて、つまみをぐっと押さえると、ススススーッと窓を降ろしてピシャっと閉めてみせたのだった。
それはひさかたぶりにカケルたちに平穏がもどった瞬間であった。
「え〜、みなさまぁ、大変お待たせいたしました。まもなく当列車は雲を抜けま〜す」
車掌のアナウンスが入ったのはその直後だった。
「ちっ、お気楽な野郎がここにもいたぜ」
と、背の高い男は舌打ちした。
ほどなくして列車は雲を抜け、車内には光が戻ってきたのであった。
11.空に浮かぶホーム
列車は雲の上を出て、その上を走り始めた。さきほどの雷や雨風がうそのようになり、ただ暖かい太陽の光が窓ガラスをつきぬけてカケルたちの元へと届いた。
カケルは窓の外を眺めた。青い空の下には地面の代わりに白い雲がどこまでも続いている。
事情を聞いたお気楽車掌は皆にバスタオルとドライヤーを貸してくれた。皆はひととおり身体を拭くと、ドライヤーで髪の毛と衣服をかわかしはじめた。車内にはさっき吹き込んできた冷たい湿った風に代わって暖かく乾いた風の音が響く。
ドライヤーで髪を乾かしながらカケルはふと思った。どうして列車にドライヤーやらバスタオルが都合よくあるのだろうと……そしてカケルはひとつの結論に達した。おそらくここはそういう席なんだと。だからそういう時にそなえてブツが用意してあるのだろう。現に客がこんなに困っていたというのに車掌はちっとも運転席から出てこなかった。
でも、口に出したら背の高い男が怒り出して、車掌さんに「あなたのような方にはよく言われます」とか言って営業スマイルでごまかされて、もっと背の高い男がヒートアップすると思ってカケルは言わないことにした。
ドライヤーはなかなか高性能で、わりと短時間で髪も服もすっかり乾いてしまった。
「服の乾き具合はいかがですか」
ほどなくして巡回していた車掌が後ろの車両から戻ってきた。
「は、はい。とてもいいです」
と、カケルは答えた。「それはよかった」と車掌は笑顔で言うと、マイクを取り出しアナウンスをはじめた。
「え〜、まもなくポッポ〜、ポッポ〜、ポッポ駅に到着いたします。到着前に当列車は再びレール上に戻りますので少々揺れます。お気を付けください」
ポッポ? ポッポ駅なんて変な名前だなぁとカケルは思った。
ほどなくして、キキキキィーーッという音が列車の両サイドからして、かすかに火花の飛ぶのが窓ごしに見えた。列車は少しガタガタと言ってやがて落ち着いた。
カケルは窓を開けると身を乗り出して進行方向を見た。すると雲の中にレールが見え隠れしているのが見え、その先に駅のホームらしきものが浮かんでいるのが見えたのだった。
そのホームに近づくにつれて列車は減速し、ついにホームの横で止まった。列車の右側の扉が一斉に開き、わらわらと乗客たちが降りだす。
「みなさま、本日はご乗車くださって誠にありがとうございました」
と車掌がアナウンスした。
「ぼくも降りなきゃ」
と、言ったのは小さな男だった。
小さな男は座席からひょいっと降りると、出口のほうにむかって走り出した。
「あ、僕も…」
カケルもなんとなくつられて席を立ち走り出そうとしたが、ぐっと何者かに後ろをつかまれ止められた。
振り向くとそれは車掌だった。車掌は、
「貴方はピンク色の切符です。次の駅までご乗車いただけます」
と、言った。
座席を見ると、背の高い男、眼鏡の男、遅れてきた男、三つ子は座っていた。再び出口の方向を見ると小さな男が、手を振って、
「カケルさぁ〜ん、心配しないでください。すぐに追いつきますから!」
と、ホームへ降りたった。 そして、しゅううーと言う音とともに列車の扉が一斉に閉まった。ゴトゴトッゴトゴトッと列車が揺れだし走り出した。
カケルは席に戻ると、窓から身を乗り出してホームを見た。ホームにはたくさんの乗客たちが降りてこちらを見守っていた。カケルは車掌の言葉を思い出した。
――この列車でピンク色の切符を持っているのはあなたたちだけです
そう、もはや列車に乗っているのはカケルたちだけだった。
次に小さな男の言葉が思い出された。
――カケルさぁ〜ん、心配しないでください。すぐに追いつきますから!
あれ? 僕は彼に自分の名前なんて教えただろうか…と、カケルは思った。すぐに追いつくってどういうことだろう、と。
そうしている間にも列車はどんどんホームから遠ざかっていった。
12.風の吹く場所
作品名:ピジョンエクスプレス 作家名:No.017