ある夜の不毛なる攻防
話は少し逸れる。
ハプスブルグ家有史以来、初の女帝として歴史にその名を連ねる事となったマリア・テレジア。
彼の女帝就任の是非を発端とし、火蓋が切られたオーストリア継承戦争。
結果として、オーストリア領シュレジェンは、いちゃもんをつけたプロイセン領となった。
シュレジェンは欧州南北を結ぶ琥珀街道の一環をなし、炭田も豊富。まさに通商の要。国にとって重要な一帯だ。
持ち逃げをしたプロイセンはうはうはだ。シュレジェンは支払った代償に十二分に見合う土地である。
それ故、前統治者であるオーストリアが、このまま完全に引き下がる事は恐らくないだろう。いずれ取り返しにくるであろうが、先だっての継承戦争の痛みはオーストリアとて同様。
楽観視は出来ないが、味わった勝利の余韻に、ほんの少し気が緩んでも仕方のない事。
プロイセンを体現する国人の青年はそう結論づけた。
故に訪れた大惨事の直中。自室の毛布の中で、輝かしき半生を振り返りながら、これは決して死を前に色々思い起されるというアレやソレではないと、自分に言い聞かせて。
そんな意識の逸れが再びの油断を招いたか、青年プロイセンの最後の牙城は、すぐそばで重圧をかけてきている誰かにあっさりと剥ぎ取られた。
息を、のむ。
あれだけの震えがぴたりと止まり、そのまま金縛りにあったかのように四肢が硬直する。
なんとか自由のきいた目を動かし、ぼやけた視界の中、自分を見下ろす影を見た。
白と緑を基調とした軍服を纏い、毛布を片手に佇む誰か。男とはかけ離れたやわらかな体の輪郭。ゆるやかに波打つ長い髪。
視線を上げれば豊満な胸、のさらに奥。こちらを見下ろす翠の眼には、研がれたばかりのような、剣呑な光が帯びていた。
「……ハンガリー」
乾いてひりつく喉から、かすれながら声が出た。
そこにいたのは、先の戦争でオーストリア側につき、プロイセンを追い詰めた東欧の国人、ハンガリー。
何故ここに。そう思いながらも、彼女を駆り立てている理由は、恐慌状態のプロイセンにもなんとなく察しがついた。
ハプスブルグの女帝兼ハンガリー女王に扇動され戦いに加わった東欧の一国だが、彼女自身はその女帝や、彼の国人の坊ちゃん貴族ともに懇意……いや恐らく、その言葉以上の間柄だ。
もとより情に篤い性格もあり、此度の一件にオーストリアよりも憤懣やる方ない思いを拗らせ、結果夜襲。そんなところだろう。
彼女の行動をたやすく分析できる程度には、プロイセンもハンガリー個人との付き合いは長い。
だがそんなプロイセンでも、毛布を奪ったきりこちらをただ睥睨してくるハンガリーの出方はわからずにいた。
いっそ武器でも振りかざしてくれば、身に沁みついた戦闘経験から次へと状況を打開出来るのに、彼女の動きが悪い意味で読めない。
どうくるつもりか見極める為に、続く沈黙をプロイセンが破る。
「……俺に強要した所で、条約がひっくり返るわけねぇだろ」
「わかってるわよ」
鼻をぐずらせながらの指摘を、ハンガリーが何を今さらといわんばかりに一刀に断じる。
その声音に先の繰り言の恐怖を思い出し、虚を衝かれる。毛布を捨て、ハンガリーが寝台に上がってくる。ぎ、と軋んだ音が続いた。
体重をかけられるも、相手の動きを封じるそれではない。伸びてくるハンガリーの両の手にも未だ武器はない。出そうとする気配もない。
首を絞めるつもりにしては何もかも甘い。
どう来るか窺っていると、彼女の手は、敷いた男の首ではなく髪へ触れてきた。その手は冷たく、プロイセンの記憶にあるぬくもりは、もうどこにもないと突きつけられたようだ。
悪寒と、何とも言い難い喪失感にぞわりとする。
なのに、その手はプロイセンを撫ではじめる。優しく、穏やかに。
プロイセンはいよいよわけがわからなくなった。彼の知るハンガリーなら既に拳が出ているはずだ。
真意が図りきれず、結果としてプロイセンはされるがまま動けなかった。
そんなプロイセンを意にも介さず、ハンガリーは体を倒し、敷いた男の頭を両手で包むと、何事かを耳元で囁き始めた。
「それでもいいから返しなさい早く返しなさいとっとと返しなさい返せ返せ返せ……!」
再開された怨嗟に、突如荒くなる撫でまわし方に、プロイセンは彼女の出方をみてしまった事を心底後悔した。
作品名:ある夜の不毛なる攻防 作家名:on