妖アパ 千晶x夕士 過去捏造
冷めてしまったコーヒーを飲みながら、他愛もない話をしつつ
俺はほんの少しだけ「時間がこのまま止まればいいのに」なんてことを思っていた。
しかし、現実問題として俺が戻らなければ古本屋は時空の狭間に残されたままだ。
いつまでもゆっくりとしてられない。
そろそろ寿荘へ向かおうかと考えると、千晶は気付いたのかスッと立ち上がり
「そろそろ行くか?」と声をかけた
「ああ。そうだな。名残惜しいが古本屋を独りで放っておけないからな」
俺も立ち上がりジャケットを手にする。
「ち…千晶!?」
俺の手をグイッと引っ張り、小さい千晶の顔が近づいたと思ったら、唇に暖かい感触
「今の俺の気持ちだ。返事は稲葉が無事帰ってきたら聞かせてくれ」
何事も無かったように離れる千晶の左腕を反射的に掴み取り「千晶…」と声を絞り出す
突然のことで頭が真っ白になった
*
俺…千晶にキスされた?
海外生活が長くなると、お国柄挨拶としてフレンチキスはよくある。
が、唇にされることは先ずない
しかも男同士だ。
別に同性同士について偏見を持っている訳ではないが、相手が千晶となると別だ。
「…なんで?」
何に対して「なんで?」と言ったのか自分でも良く理解できなかったが、
咄嗟の言葉に千晶は俯いた
「どうしてこんなことをしたのか?ってことか?」
冷静な千晶の言葉に俺はコクコクと首を上下に動かすのみだった
「別れの挨拶とかじゃないぞ。解らないならもう一度するけど?ダーリン」
「いや…っていうか懐かしいな、その呼ばれ方」
掴んでいる俺の手を包むように、千晶の右手が重なる
「稲葉が俺の傍からいなくなって気付いたんだ。いや…実はもっと前からだな。」
「覚えているか?三年の春、遠足で遊園地に行っただろ?」
「ああ。覚えてる」
「あの時、突然進路変更を俺に告げただろ?」
そう。
あの春休み中に考えたんだ。
就職して大人になる前に、もう少し色々な世界を見てみたいと思った。
金にならないことをして、本を読んで、旅行したり色々な人に逢って、
脳みそが刺激されるような分野を勉強したいと思った。
結果的には、受験前に恭造事件で俺は意識不明となり、今に至るわけだが。
「俺はさ。お前が方向転換の理由を話した時、嬉しいと思う反面、
稲葉が遠くへ行ってしまうような錯覚を受けたんだよ」
「……」
「稲葉が俺の前からいなくなる…そう思うと、胸が苦しくなる。
身体が震えて、眩暈がする。もう声が聞けない、触れることができないと考えるだけでゾッとする」
「…ッツ…」
「意識が回復し、やっと退院できたと思えば世界旅行に旅立ち、
俺がどんな思いでお前を見送ったと思う?」
「ベガスでお前に逢えた時、俺の心境を話してやろうか?
稲葉の姿を確認した時、背中に羽が生えたかと思うほど身体が軽かった。
あまりにも嬉しくて、涙が流れそうだったよ」
「…千晶」
「"稲葉"って呼べば、すぐ隣に居て、お前が"千晶"って返事するのが嬉しくて、
例え短い間でもお前と一緒に過ごせて幸せだったよ」
「…お…俺は…」
「ベガスで俺が言ったこと覚えてるか?」
『これから、お前の世界旅行がどれぐらい続くか知らんが
お前ならきっと、その経験を活かすことができる。』
『お前はこれまでと変わりなくやればいい』
『それでもお前は、日々リセットされ、リニューアルされ、成長していくよ』
ああ。もちろん覚えているさ、千晶
僅かに残っていた俺の生徒の部分が、きゅんと甘く痛む思いがしたさ。
そして、あの時力強く千晶の手を握り返したことも覚えている
「あの時、俺は理性を保つのがやっとだった。
正直、このままお前を日本へ連れて帰りたいと思っていたさ」
「でもな…」と千晶は苦笑いしつつ続けた
「それは間違いなんだ。俺が稲葉を縛ってはダメなんだよ。
お前の未来は、お前自身で切り開いて掴み取る必要がある。
俺じゃ…お前の役に立たない…」
「千晶!それは違うぞ?千晶は俺達生徒一人ひとりを正しく導いてくれた。
役に立たないなんて言わないでくれ!!」
少なくとも、千晶が居てくれたから今の自分がいる。
勿論、千晶だけじゃない。寿荘の住人や姦し娘、長谷や叔父夫婦達だって、
ひとつも欠けていい筈はない。
「…そ…それに!俺は…」
顔が熱い
予想だにしなかった展開を迎え、俺自身今何を口走ろうとしているのかわからなくなってきた
千晶になんて返事すればいい?
長谷や寿荘の住人達に対する「好き」とは違う
でもそれがどんな「好き」なのか、今の俺にはわからない
恋愛感情の「好き」なのか、家族に対する「好き」なのか
掴んだ千晶の腕に力を込めると「イタッ」と聴こえ「悪い」と離そうとすると
重ねられた掌がギュッと強くなり、「千晶?」と顔を覗き込む
「俺、三十過ぎて泣きそうだ。」
「随分と涙もろくなったんじゃねーの?ハニー」
俺はクスクスと笑うと、バツの悪そうな表情の千晶と目が合った
そのままお互い惹かれあうように、もう一度唇が重なる
二度目のキスは長く、互いの熱を確かめ合うように深く、
ゆっくりと、ひとつに溶け合うように存在を確かめる
嫌悪感はない
学生の頃、姦し娘たちに「女無用」と言われたことがあるが、あながち間違えでもないのだろうか?
それとも…相手が千晶だからか?
そっと離れて、ゆっくりと目を開ける
千晶はニヤリと不敵に笑い「どうだった?」と聞いてくる
俺はボンッと音でもしそうなぐらい、真っ赤になって、口をパクパクさせてる
まるで酸素を求める金魚のようだ
「今回は…我慢する。だけど、稲葉。帰ってきたら、もう一度お前に伝えたい。
その時には、返事が欲しい」
「我慢」ってなんだ?
これ以上に際どいことをしようとしているのか?
教員でありながら、元生徒(男子)に手を出すとは、千晶もぶっ飛んでる
まーそんな千晶のことも「悪くない」と思うところ、俺もぶっ飛んでるんだろう
「ああ。わかった。その時には返事する」
「なるべく浮気はしないでね、ダーリン」
「それはこっちのセリフだぜ、ハニー」
俺達はケラケラと笑いながら、部屋を後にした
*
寿荘までの道のりは、千晶のシトロエンで行った
部屋での出来事がまるで無かったかのような雰囲気で終始学生に戻った気分だった。
アパートの前に車が止まると、俺はシートベルトを外して「寄ってく?」と聞くと、
千晶は首を左右に振り「離れ難くなる」と笑顔で答えた
俺達は再会を誓って、強く、固く、手を握り合った
遠ざかる車を見送り、久しぶりのアパートへ足を踏み入れた
作品名:妖アパ 千晶x夕士 過去捏造 作家名:jyoshico