豊縁昔語―樹になった狐
日を追うごとにそれはより詳細な地図となりました。
ある時、上人は白蔵子を食事に誘いました。
白蔵子が緊張した面持ちで正座をしていると、じきに食事が運ばれてきました。
「なんですかこれは」
出された食事を見て、白蔵子は尋ねました。
上人は一瞬驚いた表情を見せましたが、すぐにどういうことか理解をしたらしく、
「蕎麦ですよ」
と答えました。
「蕎麦。これが」
文字の上では知っていましたが、彼は今まで蕎麦を見たことがありませんでした。
とりあえずは上人の真似をして食べてみることにします。
つゆにつけたねずみ色の麺をつるつると啜りました。
「……これは美味い」
と、悪狐は感想を述べました。
「蕎麦を知らなっかたとは驚きました」と、上人が言うと、
「山奥の生まれですから」と、彼は答えました。
それは偽りの無い答えでありました。
悪狐はおそらくいい意味で、知識や偏見が無かったのです。
何かを学ぶにあたっての吸収力はそこからきているのかもしれないと上人は思いました。
「白蔵子よ」
「はい」
「今、この豊かなる縁の土地には二つの渦が廻っておる」
「二つの渦……」
反復するように悪狐は答えました。
渦が何であるか、悪狐は知っています。
どちらの側にも身を置いたことがあったからです。
「相対する二つの渦は周辺の小さな国々を蹂躙し、自分達の色に塗りかえていっておる」
食べ終わった後のつゆに蕎麦湯を注いで上人は続けました。
「のう、白蔵子よ。赤があるから青が引き立つのではないのか。青があるから赤が引き立つのではないのか。他の色も同じことよ。我らは違いと多様を受け入れねばならん」
かつて、青の側に属していた時、青に染めることこそが役目と青装束の男は言いました。
赤装束のお頭は赤にすることこそが正しいと説き、実際にそうしてきました。
悪狐の主人、お頭の目的はこの国を取り、天昇上人を捕らえることです。
新緑の国は戦略的に重要な土地でありました。
また、天昇上人を野放しにすればいずれどこかで障害になるだろうと、彼もその上も考えていたのです。
「……私には教えていただいた知識があるだけです。何が正しいのかはわかりません」
と、白蔵子は答えました。
「お前、こういう時は私に同調するもんだぞ」と上人は笑いました。
「申し訳ございません」と白蔵子は言いました。
「白蔵子、私はな、龍のようでありたいと思っている」
「リュウ……?」
「そう、龍だ」
「龍とはどんなものですか」
「姿はとてつもなく大きな蛇と言ったところか。だが、翼も無いのに空を飛ぶ。摩訶不思議な存在だ」
白蔵子が尋ねると、上人はそのように答えました。
それはどこか昔を懐かしむような言い方でした。
「龍を見たことがあるのですか」
「若い頃にな。その日は雲からいくつもの光の梯子が下りておった。ほんの一刻のことだった。角を生やした龍の頭が掠めたかと思うと、腹を少しばかり見せて、すぐに雲の中に引っ込んだ。少しだけ地上を覗きに来たのかもしれぬ。今ではそれが夢であったのか現であったのはかわからぬのだ。だがそれはさほど重要なことではないのだ。いずれにしてもその時から私は龍のようでありたいと思った」
「龍のように、ですか」
「龍は空を飛ぶ鳥よりも高い高い場所を悠々と飛びながら、この豊縁全体を見ておろう。一生地に足をついて生きる人には見れぬ境地がそこにはある。そういう風にこの世界を見ることが出来たなら、あるいは何が正しいのかわかるかもしれぬ」
天昇上人は言いました。
私も結局の所は人の子であるのだと。
人の子に見ることのできる世界は限られているのだと。
人の子だけでは真理には至れないのだと彼は言いました。
悪狐には、真理のことなどよくわかりません。
けれど上人の語る龍というものを一度見てみたいと思いました。
「上人殿、さらに貴方の下で学ばせてください」
と、白蔵子は言いました。
上人には真の姿も、真の目的も偽っていました。
けれどその言葉自体に偽りはありませんでした。
白蔵子は上人の下で学び続けました。
朝早くから起き出して、経を読み上げると、書物を読んだり、書き写したりいたします。
昼になると蕎麦を食べにゆきました。
晴れた日には上人と蕎麦の畑の道を通って、様々な所へ出かけて行きました。
そうして、地図はどんどん書き込まれ、黒い部分が増えてゆきました。
今や国のどこになにがあるのか、国の成り立ちや仕組みがよくわかります。
新緑の国は周辺諸国に比べても優れた制度や技術が多くありました。白蔵子はそれをなるべくわかりやすく文章にいたしました。
白蔵子はここでの生活が好きでした。できればずっとこうしていたいとも思いました。
しかしながら、新緑の国の学問や知識を多く修めた白蔵子はついに「戻る」ことにしたのであります。
「話とは何だ。白蔵子」
まだ日も昇らぬ暗いうちに尋ねてきた若い僧を見て、天昇上人は言いました。
「貴方は私に才があると言って下さった。今まで目をかけてくださった事に感謝しています。しかし私は戻らねばなりません」
「戻る? どこにだ」
上人は眉をしかめて尋ねました。
「私達が赤と呼んでいる者のところです」
と、白蔵子は答えました。
「上人殿、私には知識があるだけです。ですから何が正しくて、何が正しくないのかはわかりません。しかしながら、最初に私を認め、読み書きを教えてくれた、学ぶことを教えてくれたあの人には報いなければならないのです」
そこまで言うと白蔵子は悪狐の正体を現しました。
赤と黒の毛の獣の姿が上人に一礼して、次の瞬間に大きな燕の姿になりますと暁の空に飛び立ったのあります。
上人もお頭も彼には才能があると言いました。
悪狐の伝えた情報は正確でした。
新緑の国はまたたく間に赤によって制覇されました。
軍勢を指揮した悪狐の主人は、その功績によって大いに出世し、新緑の国の政治を任されるまでになりました。
けれど、政治を行う彼の横に悪狐の姿はありませんでした。
彼は新緑の国に攻め込む前の主人に次のように語ったといいます。
私の持ち帰った地図をもとにして貴方様が戦をするならば、ほどなくして勝利できるでしょう。
けれど、貴方がいつもやるように、あの国でむやみに火を放つのはお止めなさい。
蕎麦の畑に火を放てば、美味しい蕎麦が食べられなくなります。
都の学院に火を放てば、あの国にある多くの知恵は失われるでしょう。
私があそこで学んだことを伝えるにはあまりにも時間がありません。替わりに私は多くの書物をその場所に置いて参りました。
どうか燃やすのではなく、取り入れてください。塗りつぶすのではなく、受け入れてください。
これを破ればいずれ貴方は失脚します。
ああ、それと。
貴方様に謝らなくてはなりません。
作品名:豊縁昔語―樹になった狐 作家名:No.017