ななつとせ
はぁはぁと息を切らせ少女は切り株のある草地まで戻ると、そこで大人しく座って彼女の帰りを待っていた緑色のぬいぐるみをさっと抱き上げた。
「タマっ!」
布地の体に顔をうずめんばかりにぎゅうと、形がひしゃげるくらい強く抱きしめる。まだ心臓がドキドキしていた。それでも、優しい肌触りの彼女の友達は、いつも通り、彼女に安心感を与えてくれる。
それでやっと少し人心地がついて、少女は顔を上げ、走ってきた方に顔を向けた。
「……どうしよう。吃驚して逃げて来ちゃった」
だって、人が来るなんて聞いてない。それも男の子なんて。そもそも、どこから来たというのか。少女には、あの少年が、まるで森の中の、あの見事に咲き誇っていたフリーダーの花影から突然現れたみたいに思えた。でも、まさか。そんな訳はない。
いや、ひょっとしたら迷子では? 次にそう考える。なんといっても子供ひとりきりだった。けれど、ハイキングコースのような整備された道からは、ここは遠い。うっかり迷い込んでくるような場所でないことは少女も知っていた。それとも密猟者が連れてきた子供だろうか。親とはぐれて迷ったか。しかしそれにしては随分と、ちゃんとした服装だ。少女は少年の姿を思い出す。返しが紫の黒っぽいケープ風ショートマントに、揃いの布地の襟首まできっちりと閉めた上着と、同じく丈の長いズボン。自分の年くらいの子供は、あんなかっちりした服じゃなく、普段もっと遊びやすいラフな格好をしているものじゃないのか。子供の姿を直接見ることがなくても、子供らしい格好がどんなかくらいは、少女にも何となく分かる。仮に密猟者の子なら、なおさら動きやすい山歩き向きの服装をするだろう。あの男の子は、どう見てもそんな感じではない。彼女は軍や学校で着る制服を知らなかったけれど、もし知っていたらそんなスタイルだと思っただろう。少なくとも、何やら正装しているようだと彼女なりに感じていた。山や森に来る格好じゃない。
家に戻って両親に連絡するべきだろうか。でもよりによって今日はふたりとも研究調査で早朝から森深くに入っていて、昼すぎでないと戻らないのだ。一応家には留守番兼子守として、家事手伝いを時々頼む一番近くの村落出身の老婦人が来てくれていたが、たぶん今の時間、家事も一息ついて彼女はお昼寝中だろうし、そもそも密猟者なら彼女に言っても対処はできない。
少女は少し考えて、今はまだ大人に声をかけないでおこうとそう思った。第一、さっきの子が実在してるのか、自分でも怪しく思えてきたのだ。薄紫の花の木から現れた、金の髪に黒の礼装の少年なんて。それに、すごく綺麗な顔立ちをしていた。
(まるで花の国の妖精の王子様みたい。うううん、人を惑わす妖魔の子かも)
考えかけて首を振る。そんなのは、お伽噺の中だけのはずじゃないか。求婚者が降って湧いてこないのと同じ、あの子だって、何処かから迷い込んだ人の子に決まってるのに。
(何か言ってたみたいだったけど……気が動転しちゃったからかよく判らなかったな。もし迷子なら、人に会えてホッとしたのかも。逃げてきちゃうなんて、可哀想だったかなぁ……)
ついてくるのじゃないかと思ったのに、その気配はない。夢幻か、それとも実在したものなら助けを求めていたのかも。だんだん気になって、少女はまたくるりと体を翻し、花畑へと思い切って戻ることにした。今度はタマも一緒だから大丈夫。怖くない。そう自分に言い聞かせて。