ななつとせ
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少年の目の前には緑の世界が広がっていた。壁や床に塗られる塗料の単色とは明らかに異なる、微細な色が折り重なったモザイクの世界。惜しみない光がそこに白い反射と黒い影を齎して、見える色をさらに複雑にしていた。耳慣れた機械音とは異なる音が溢れている。煩いというほどではないが、無音の静けさには程遠い。頬に触れる空気はやや冷たく湿気を帯び、驚きに思わず大きく吸い込んだ空気が肺に甘い。
(――なんだこれ。ひょっとして植物?)
おっかなびっくり踏み出した足元は、奇妙に柔らかい。足が沈むほどではないが、どこか心もとない弾力があり、強いて言えばクッションマットを踏むそれに近かった。思わず自分の足先を確かめるとむき出しの土の上を腹ばうような短い丈の草が覆っている。異様に明るいと思って光源を探し仰ぎ見れば梢の茶色と緑の葉が壁作るその上はるか遠くに薄い青が見えた。天井ではない。天井がどこかわからない。屋外だというのなら、そこにあるはずの鋼鉄の覆いが消えていた。
「何、これ。どうなってるんだ? ここ、本当に目的地であってるのか?!」
彼は慌ててポケットに入れていた流線型の端末を取り出した。アイ・ビジョンと言われる映像投影に特化したタイプだが、モバイルデバイスとしての機能は十分備えているそれで現在位置を確認しようとしたのだ。ところが。
「……ネットワークに繋がらない!?」
慌ててGPS機能以外の操作を試みたが、どれも似たような状況で通信エラーのメッセージが虚しく上がる。端末が壊れたのかと思ったが、本体メモリに記憶されてるデータは問題なく呼び出せたので、ネットワーク経由のシステムのみがアウトらしかった。
(何でだ? この付近の中継装置がいかれてるのか? くそっ、仕方ないから転移装置のターミナルから直接ケーブルつないで……)
考えながら、転移位置のあるべき場所へ戻ろうと振り返って彼は二度目に絶句した。そこに見慣れた機器類はかけらも見いだせなかった。というより金属らしきものが殆どなかった。
そこにあったのは屋根まで蔦で覆われた木製の掘っ立て小屋で、今は開け放たれたドアから見える薄暗い中には真ん中に土間の通路が切られ、それは対面する壁側に入り口と同じように開けられたドアに続いていた。四角く切り取られたその向こうには、こちら側と同じ緑しか見えない。大して広くもない小屋の内部は、通路にそって両脇いっぱい、ほぼ全面に木材が積み上げられ、片隅にチェーンソーや斧や鋸、金槌などの工具や大工道具類が積まれた棚がひとつある以外、何もなかった。念のため工具類を確認しつつあちこち触って調べてみたが、コンピューター機器らしきものが一切ない。カメラのたぐいもなければマイクもスピーカーもない。天井に裸電球がひとつ取り付けられてるほかは電気配線も見つけられなかった。そんな訳はない。どう考えてもおかしかった。彼は転移装置に乗ってここに来た、それは間違いないはずだというのに、出力ポートもなしにどうやってこの場に自分は出現したというのだろう。それとも、立体視装置で巧妙に隠されているのか。しかし触感までごまかせないはずだし、どこを触っても隠されているべき金属や樹脂でできた装置の質感が得られない。通信電波に反応するはずの携帯の内蔵装置も無反応のままだ。八方塞がりで立ち尽くす少年の鼻腔に嗅ぎ慣れない木の香が満ちている事に、今更のように彼は気づいた。彼の生活空間に、匂いはほとんどしない。彼の知る匂いといえば、転送ポートでのイオン臭やポートを使わない直接移動で利用する車やヘリなどの機体に乗り込むとき感じる機械油が若干混ざったよう独特の金属臭、あとは体を洗浄する際の薬剤に入った香料くらいで、食べ物でさえ鼻を近づけねば判らないほど匂いが薄い。下層階に行くか街の外に出ればもっと雑多な異臭がするが、積極的に嗅ぎたいそれではない為、彼は殆ど行ったことがない。今嗅いでいる匂いはそのどれとも違うが、嫌な匂いではなかった。何か仄かに甘さを帯びた、むしろいい匂いだと彼は思う。覚えのない匂いが何かを考えて、ふと、テロリストがガス類を使うこともあるのだと、学校へ通うため外出許可が出た折に受けた危機管理教育での話を思い出し、一瞬緊張する。だが、びらん性ならまず目や肌に刺激があるはずだがそれはないし、苦しくもなければ麻痺もしていないから窒息性や神経ガスの線も薄い。薬剤の刺激臭でないことは確かだし、頭はむしろ冴えているくらいだ。ただし、鼓動だけは常よりずっと早い。でもこれは想定外の異常事態に対しての緊張からくるものだ。
(落ち着け。人為的なものにしては不審者も見当たらないし、多分これは何かの事故……だよね、きっと。転移先の位相がずれたとか、そんな感じの。パニックを起こしても二次災害を生むだけだ。だいいちみっともない。慌てなくても、そもそもどうせSPが見てたに違いないんだから、ここがどこだとしても待機してれば救助も来る、はず)
小さいながら監視に囲まれて育っただけに、一応不測事態への対応も教わっている彼は、とりあえず表向き落ち着いて見えた。しかし、今のところ成功を収めている彼を取り巻くプロパガンダのお陰で、希少で尊い「最後の子」をどうにかしようという不貞の輩の襲撃を受けたこともなければ、行く先々を管理して回られるから事故らしい事故に遭ったこともないのが実情で、内心不安で落ち着かなかった。彼は同年代に比べ随分と大人びてこまっしゃくれ、置かれた環境だけでなく天賦の才もあって賢く物知りではあったけど、経験の浅い幼子であることに変わりない。普段は周囲に潜む大人の影を疎んじていても、それは彼らの思惑に過敏な繊細さがそうさせるのであって、同じ鋭さで、実際に今は何一つ守られるものがないであろう事も見て取ってしまえば心細くもなる。
それで、下手にうろつき回らない方がいいことを承知で彼はもう一度外へ出た。近くに誰かいないかと思ったのだ。人がいれば、ここがどこかを訊くこともできるし、必要ならば助けも乞える。何より彼自身認めはしないが、一人じゃないという安心が欲しかったのだ。
薄暗い屋内から再度明るい外へ出て、彼は目を瞬かせた。ここがどこにせよ、照明が眩しすぎやしないだろうか。よく見ると、緑だけでない雑多な色が目に飛び込んでくる。慣れない鮮やかさに視神経でなく受容してる脳のほうがハレーションを起こしそうだ。