ななつとせ
それでも意を決して、彼は周囲を調べて回った。取り巻く緑やカラフルな色が植物だろうとは、持ってる知識から察したものの、彼が見たことがあるそれは、一度見学に行ったアルテアの食料を支える工場の一区画にある水耕農場のガラスケース越しくらいで、本来の色を消してしまう赤紫の人工照明の中だったから、これほど溢れかえる緑は初めてだ。踏むのも触れるのも当然初めてだし、そもそも踏んでいいのか躊躇するが、避けて歩ける隙間もほとんどない。一応草の薄い、道と呼ぶには頼りない細い土の隙間を辿り、きょろきょろと周囲を伺いながら彼は進んだ。足の下も、彼が慣れ親しんでいる硬い床材でも地を覆う舗装材でもない。少しも平らじゃないし、小石やら枯れ葉やら見慣れぬもので埋まっている。何もかもが奇妙だった。まるで夢の中にでも放り込まれたみたいに。いや、むしろ夢だという方が納得がいった。ここがどこかも判らないが、そもそもここは彼が知る「世界」と異なりすぎていた。
(ひょっとして全部手の込んだ作り物では?)
ふとそんな考えが閃いて、思わず彼は足元に生える指先ほどの丸い葉を連ならせた草のひとつを引っ張ってみた。それは細やかな抵抗を彼の指先に伝えたあと、あっさりと千切れた。そのことにまず驚く。ちぎれた草の茎の破断面をしげしげと観察すると、ひしゃげたそこにじわりと透明な液体が滲み膜を作る。生きている。作りものではない、やはり本物だ。ではここにある全て?
少年は屈んでいた腰を起こし改めて自身のぐるりを見回した。緑が彼を覆う。無機物に囲まれることに慣れてきた少年は、物言わぬ生命に取り巻かれているのだと自覚した途端、畏れに似た感情に萎縮し息を呑んだ。自分がひどく小さく思え、じっとしていたら飲み込まれ潰されてしまう、ありえないと判っているのにそんな恐怖に侵食され、思わず叫びそうになったその時。
彼の耳に歌が届いた。
ラベンダー、ミルテに、タイム草
庭に咲きこぼれてる
愛する人は いつ現れる
私待ちきれないわ
少女はナイフで切り取った幾束かのフリーダーの花房を膝上に載せ、彼の木の花影近くの草花の中に座り込んで歌いながら花冠を編んでいた。先ほど摘んだばかりの野の花を生けたバケツも、今は彼女の座るすぐ横に置いてあって、少女は時折その中から花を抜き取っては作りかけの花輪に添わせて検分し、小首を傾げて出来栄えを想像しては、納得するまで取り替え、色や形を良しとすると、フリーダーメインのその花の輪の彩りにと加え、蔓を巻きつけ編み込んでいく。薄紫の小さな花が群がるフリーダーをふんだんに使えば、花冠は清楚なのに華やかに見えた。これをつけたらフリーダーの妖精みたいに見えるんじゃないだろうか。それとも白いドレスにレースを被りフリーダーの花を戴いたらまるでそのまま花嫁さんになれそうだ。
歌いながら少女は薄い花色のような朧な未来の夢を描いて、本当に自分が花嫁の冠を編んでいる気分に気持ちよく浸っていた。いつかは自分もお母さんみたいな大人になって、そうしたらきっとお父さんみたいな人と結婚するかもしれない。彼女の両親は穏やかで仲睦まじかったから、彼女は両親のように幸せな結婚をして、今度は自分が親になる素敵な家庭を持つんだろうと、疑いもせず思っていた。そうしたらこんな素敵な花冠をつけれるかも。でもそれにはお婿さんになってくれる人がいる。大人になったら会えるのかな。思いながらも想像ができない。お婿さんはおろか、少女には未だに人間の友だちがいないのだ。だからどんなふうに知り合って、どんなふうに仲良くなるものなのか、ちっとも思い描けないのだ。流石に、突然どこからともなく降って沸いたように王子様が求婚しに来るとは思えない。そんなのはお伽噺の中だけなのだと、そのくらいは彼女なりに理解してはいた。
つもりだった。
麗し処女(おとめ)の冠
すみれ青の絹の すみれ青の絹の
その歌が、斜面の上の方から降ってきた、上ずった悲鳴と重さのある何かが地面を転がり落ちる大きな音に遮られるまでは。