ななつとせ
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「うわぁあああっ!?」
と、悲鳴を上げたのは先ほどこの森に何処からともなく迷い込んだ少年。彼は他の何でもない人の声を聞いたことで心底ほっとして、か細く聞こえた歌と思しきものの音源を探るように慣れぬ森を歩き、そうして急斜面のちょっとした崖の上に出た。歌はその下から聴こえるが、斜面の途中に生えている薄紫の雲のような花を梢いっぱいに纏わりつかせた木が視界を遮って歌声の主の姿は見えない。だが、近づいてよりはっきり聴き取れるようになったその声はあどけなく高く、歌い方も少したどたどしい。彼が探していたような大人のそれとは明らかに違っていた。誰か居るらしいのは喜ばしいものの、今度は見つけた人が自分と同じ子供であるらしいことに疑問を覚える。ついでに、聞こえる歌が、気のせいではなく言葉としてまるで聴き取れないのだ。発音からしてスキャットではなく歌ってはいるようなのに、知った単語をひとつも拾えない。
判らないことだらけのこの現状に、さすがの少年も混乱を極めていた。兎も角、どうにかして下へ降りて歌ってる相手に会おう、そう彼は思った。子供だろうが人がいるなら、この現状を知る手がかりも得られるだろう。だが、彼が辿った草の間の獣道は崖の上で途絶え、そこからは急な斜面になっていた。とは言え、絶壁ではない。斜度はやや急だが木や草が生え、岩が顔を覗かせてもいて、足掛かりになりそうなものは幾らでもあったから、伝い降りることもできる、そう踏んで、少年はその斜面をそろそろと降りだし、半ばくらい降りたところでお約束のように足を滑らせた。あとはもう、背を地につけた状態で重力の誘うまま滑り落ちるのみ。ただし、木や草が無節操に生え根っこや岩の頭が突き出た中を滑り落ちてただで済むわけがない。顔や手をしたたかに草や木の葉に叩かれ擦られ、小さくバウンドして、途中で横倒しになり、下の地面についた時はその勢いで小さな体は軽く横向けに一回転してやっと止まった、という次第だ。
悲鳴はつまり、滑り落ちた時のものだ。足元を掬われたような驚きが先に立って、痛いとかの感覚を覚えたのは、顔の横に地面があると気づいてからだ。
「…痛ゥ……ッ」
手をついて何とか体を起こし、衝撃で少しくらくらする頭を振る。滑り落ちた時にちぎれてついたらしい何かの葉が頭から落ちた。無意識に体を庇おうとしていたものか、掌や甲に細かい擦過傷ができていたが、じんじんする割に傷は大したことなさそうだった。長袖に長ズボンという服装のお陰か、他に傷はなさそうだ。崖の裾の方は斜度も緩いし、半分以上降りていたから思ったほどダメージは受けずに済んだものらしい。しかし、万全の守護体制を敷かれ、危険から極端に遠ざけられていた少年にとって、たかが擦り傷とはいえ怪我を負うのは久々のもので、実際の痛み以上に気が動転していた。驚きすぎて痛い事実の方は二の次になってくれてもいたし、これで存外気は強いので泣き出すことはしなかったものの、しばし呆然と、泥だらけで血が滲みだす手を眺めてしまう。
と、怯えたような高い声がかけられた。呼ばれたような、誰何するような。ただし何を言っているかわからない。だが、それで少年は我に返り、目的を思い出した。
「誰かいるの? いるよね?」
しかし返答はない。
声は、地面まで垂れ下がる程に薄紫の房を重たげに纏わりつかせた木の生い茂る向こう側から聞こえていた。崖の逆側に密集してる他の灌木の葉陰もあって、向こう側は隠されて見えず、さりとて声の主がこちらへ近づいてくる様子もない。少年はその場で可能な限り泥土を払い落として立ち上がると、声の聞こえた方へ足を向けた。