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【相棒】(二次小説) 深淵の月・兄貴の条件

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兄貴の条件





  「ってえ!!」
 伊丹の怒号がとんだ。殺人事件の容疑者を確保しようとして手痛い抵抗に遭っているのだ。芹沢と三浦が加勢に加わるも年若いその男は俊敏な上にバカ力だった。一瞬の隙をついて脱兎の如く逃げ出した。
  「てンめぇ待ちやがれ!」
住宅街の中は人通りが少ない。キレ気味の犯人に人質にされそうな通行人がいないのは幸いだが逃走を邪魔してくれそうな車も通らないのは甚だ困る。一直線の通りを何かの記録でも出しそうな速度で走り去る容疑者に初めて“ヤバい”と伊丹の中の警鐘が鳴った。その瞬間通りの先からひょこ、と誰かの頭が覗いた。
    『ウソだろ?』
伊丹が目を瞠る。それは実に見慣れた二人連れだったからだ。嵯峨崎仁と桐生院怜だ。
  「れ、怜!仁!」
息を切らしながら伊丹が怒鳴る。
  「そいつ!」
ぶん!と腕を振って合図し、目の前を走る男を指した。
 が、伊丹の声が聞こえたのか聞こえなかったのか二人は何の変化もなくこちらに歩いて来た。おい!とツッこみたかったが全力疾走のさなかではそれも出来ない。もう一度言わなければ二人を突き飛ばして逃げてしまう。そう思っているうちに容疑者は仁と怜のちょうど中間に近付いていた。
  「怜!じ」
最後までは要らなかった。いきなり仁が右腕を水平に出したからだ。次の瞬間ものの見事に道の真ん中でウエスタンラリアットが決まった。
  「ぐあ!!」
男の喉にクリティカルにヒットした仁の腕はびくともせず、まるで鉄棒に失敗した体操選手のように男がぐるん、と体を丸めた。その腹に仁の右隣を歩いていた怜が左拳を突き出した。

    “ ドヴォッ!”

肉と内臓が力いっぱい叩かれるイヤな摩擦音と重力に逆らい持ち上がった男の体。腹の部分が背中側に押し出されたように見えたのは絶対に錯覚じゃないと伊丹は思った。まさに正拳突きを喰らった男は空中で動きを止めたあとやがて垂直に落下した。
  「うわあああぁ…… 」
自分の背後で芹沢の情けない声がする。その中には“逃げられなくて助かった”と“すっげえ偶然”と“つーかあの犯人ちょーかわいそー…”という様々な感慨が含まれていて、伊丹もその場で膝に手を置きぜいぜいと息を整えた。

  「オラにーちゃん、起きんかい。」
  「気絶するほど酷くやってないわよ私。」
 ウソつけ。伊丹は二人に近付きながら内心でツッこんだ。普通の人間なら間違いなくイッちまうほどの突きだったろーがと怜を睨む。
  「おい。つーかお前ら、なんで、ここに…」
息がまだ荒く伊丹は髪をかき上げる。その伊丹ににっこりと笑いかけ、不可思議な二人は
   「「 たまたま。 」」
と何度聞いたかわからないセリフでごまかした。はいはいそういう事にしとくぜ今回もと、伊丹はしかめっ面の般若顔。その伊丹の後ろから芹沢と三浦が男を引きずり起こす。
  「はい、確保。」
  「逮捕状もあるからな、神妙にしろよ。」
  「くっそ… 」
ぼそりと男が呟く。ホントに気絶してねぇと伊丹はびっくりした。
  「怜。ちったあ手加減しろや。」
  「憲兄(けんにぃ)を殴った奴に容赦なんかいらんやろ。」
いきなりネイティブな関西弁で切り返してくる。生粋の関西人である仁といるといつもの事なのだが。はあ?と口を開けたら怜がすいと伊丹の顔を指した。
  「頬骨の上のとこ。思いっきりどつかれてるやん。」
  「あ?」
触れて初めて気が付いた。少し出血もしている。仁も笑って同意した。
  「暴れたんやなあ、あのにーちゃん。」
  「仁、薬ある?」
  「ああ。消毒薬まではないよってこれ使い、怜。」
と未開封らしい水のペットボトルを差し出す。ありがと、と受け取り怜が促す。
  「っていいよこんくれぇ。」
  「ダメ。医者と若い女の子の言う事は聞くもんよ憲兄。」
ニコ、と笑って覆面パトの助手席に座らせる。医大生の仁は簡易の救急セットを持ち歩いているので簡単な治療なら出来る。いいっつーのに、と思いながらも伊丹は怜が水とガーゼで傷を洗うのに任せた。つかあの距離でこんなちっさい傷が見えたんかい、と内心でツッこみつつ。相変わらず怜と仁の動体視力は恐ろしいと改めて思った。
  「ケッ!」
 もう一台のパトカーで男が唾を吐いた。芹沢が無線連絡をしている間手錠を後部の把手に繋がれている。ドアを開けたまま後部座席に座らされていたのだ。地面に投げ出した足がまさに投げやりだった。
  「なっさけねえ、刑事のクセに。ガキに助けられてかーちゃんみてーに世話焼かれてニヤついてやがる!」
フフン。完全な八つ当たりの言い掛かりだった。意味不明とも言えるそのセリフに伊丹は“あ、バカ”と口を開きそうになった。が、それより早く怜の双眸がぎらりと光った。モロに真正面から見た伊丹はげ、と唸った。
  「…仁。あとよろしく。」
  「はいな、おきばりやす~。」
  「いやキバってどーすんだ仁!」
  「はいイタミン、顔上げたってやー?」
交代した仁が満面の笑顔でぐき、と伊丹の顔を持ち上げる。そう言う仁の目も笑っていない、怜ほどではないにしても。だがこれはいつも一緒にいる怜に「引きずられて」いると伊丹にでもわかるキレ具合だった。やばい、と伊丹は動かない顔の中で唯一動く眼球を使って芹沢を捜すのだがまだ無線で喋る声がする。おい~、と伊丹は焦っていた。捜査一課の目の前で殺人事件なんてシャレになんねえぞ!!
  「あー?なんだよガキ。」
暴力団仕込みのドスで怜を脅す男。そう言う男もそんなに年齢が行っているわけではない、せいぜい怜より二つみっつ上の程度だ。だが普通の女子大生なら裸足で逃げ出すだろうその凄みも何の効果もなかった、相手は桐生院怜なのだ。
  「つかうぜぇんだよテメエ、顔しっかり覚えたからな、俺がムショから出たら真っ先にてめぇんとこに行ってたっぷりと「礼」してやる。楽しみにしとけや!」
ゲラゲラ笑って男は怜のすらりとした足に蹴りをくれた。黒の細いスラックスにゲソ痕が横につく。やめろ、と伊丹は焦る。が、それは男に言ったわけではない。
    怜にである。

 怜は男の髪を鷲掴みにすると後頭部を車体壁にガン!と力一杯叩きつけた。ドアロック側部分に直角に。流血こそしなかったものの男の意識が一瞬飛んだ。それに構わず怜は更に髪をぎりりと引き絞り下に手を落とす。それで男の顔を持ち上げた。
  「骨の五、六本も折られなわからんようやなあ?アンタは私の大事な兄ちゃんをどつきまわしたんや、腹に一発程度で済ましたったんは警官の兄ちゃんに免じての事や。そんな事もわからへんのかいな。」
  「が…」
美貌の怜が凄絶なまでの笑顔を浮かべている。それを間近で、本当の至近距離で見せつけられた男は心底ゾッとした。本物の殺意を全身で感じたからだ。笑っていない瞳浴びせられる冷気、組の上役でもここまでのものを発するのはそういない。