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桑野みどり
桑野みどり
novelistID. 52068
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Solid Air(前編)

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chapter.4


ジェットは宿舎の裏の喫煙スペースで煙草をふかしていた。
体が軽い。今なら空だって飛べそうだ。

あの後、メンテナンス技師はジェットが頼んだ「体がシャキッとする薬」を本当に調達してきた。どのような理屈を使ったのか、ともかく正規の手段で手に入れたのだという。
「非常に強い薬ですから、副作用も大きいですよ」
彼いわく、倦怠感や疲労を感じにくくなる代わりに、限界を超えて体を酷使することになるため、薬の効き目が切れたときそれまでごまかしていた苦痛が一気に押し寄せるのだという。
ジェットは迷わずそれを飲んだ。
その薬は、思うように動かなかった体には劇的に効いたが、痛みの方はあまり改善されなかった。ジェットがそう洩らすと、技師は「それでいいんです」と強く言った。「痛みを感じないようになったら死んでしまいます」
(とにかく感謝するぜ…これでしばらく動けそうだ)
ジェットは久々の煙草を心ゆくまで味わった。

査問会が指定した時刻まであと一時間ほどある。もう少しゆっくりしてから行こう、とジェットは考えていたのだが、ふいに視界の端に映ったものに嫌な予感が走った。
それは数人の航空隊員だった。いずれも背が高く腕は太く屈強な体つきで、軍人というよりもむしろ街のチンピラじみた顔をしていた。スラム育ちのジェットにはある種懐かしく思えるほどだ。男たちは物騒な目付きをしてジェットが足を組んで座っているベンチに近づいてきた。
「おい」
野太い声がかけられる。ジェットは顔を横にそむけてフーッと煙を長く吐き出した。
「おい、てめえに言ってるんだぜ。ジェット・リンク中尉殿?」
ひときわ体の大きい男が嘲るように言った。
(めんどくせえ…。せめて煙草くらいゆっくり吸わせてほしいもんだな)
ジェットは深くため息をついて吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。その間にも男たちはいろいろな口汚い言葉をがなりたてたが、ジェットはすべて聞き流していた。
「すました顔してんじゃねえぞ、てめえ!」
おもむろにジェットは体に巻き付いている包帯の一部をほどいてちぎり、自分の両手をひとつにまとめるように絡ませた。
「…何をしてやがる?」
ジェットの予期せぬ行動に、男たちは怪訝な顔をした。
「俺、割りと気が短いほうだから。うっかりお前らを殴らないように、こうやって縛っとく」
ジェットは静かな声で言うと、包帯のはしを口でくわえ、ぎりっと両手首を縛り上げた。
「これで大丈夫だろ。…で?お前らはどうすりゃ満足なんだ?」
薄く笑みを浮かべ、余裕すら伺わせる表情でジェットは男たちを見返した。

「…て、てめえぇ!!」
逆上した男がジェットに殴りかかった。
ジェットは避けなかった。バキッという音とともに極限まで空洞性を高めた軽い体が吹っ飛ぶ。
「つ、ぅ…」
(マジか、こいつ。俺がサイボーグでなきゃ死んでるっての…そのうち傷害致死で捕まるぞ)
ジェットは地面に倒れながら巨体の男の将来を案じた。
あまりにあっけなく獲物が倒れたので、男たちは戸惑っているようだった。リーダー格の男が焦ったように「てめえらもやれ!」と叫び、重く固い軍用ブーツでジェットの体を蹴った。
取り巻きの男たちは始めは少し怯えたように、しかし徐々に大胆になってジェットの腹を、顔を、胸を、背中を蹴り続けた。
ジェットは激痛に耐えながら、意識を失わないようにすることだけを考えていた。
「…なあ、こいつ動かねぇぞ」
「まさか死んだんじゃ…」
うめき声ひとつ上げなくなったジェットに、男たちは急にうろたえだした。
「お…おい!」
一人がジェットの肩をゆさぶり、声をかけた。
(ああ、やっぱりこいつら馬鹿なだけの小物だ)
ジェットはゆっくりと目を開け、「終わりか?」とたずねた。男たちはジェットの目の光の強さに威圧されたように硬直した。

と、誰かの咳払いが近くで聞こえた。ぎくりと男たちが振り返る。そこにはいつのまに近くへ来ていたのか、ボイドが立っていた。
「お楽しみのようだね、きみたち」
よそ者だが明らかに上級職と思われる人物の登場に、男たちは慌てた。さすがに暴行の現場を見られては言い逃れできない。
ボイドはジェットを優しく抱き起こし、「ひどいことをするものだ」とわざとらしく言った。どの口が言うのか、とジェットは呆れた。
「きみたち、名前と所属を言いたまえ」
ボイドが脅すように言うと、男たちは怯えた表情になった。
「おい、あんたには関係ないだろ」
ジェットはよろりと立ち上がると、庇うように両者の間に立った。
「俺は何もしてねえし何もされてねえ。余計な口を出さないでもらいたい」
ボイドは笑っているような観察するような目でジェットを見た。
「お前らもさっさと行け!」
男たちはハッと我に返ったようになって逃げ去った。

ボイドはジェットの拘束された両手をしばし見つめると、上着のポケットから折り畳み式ナイフを取り出して、固く縛ってある包帯を切った。
「自分から縛るとはね。やはりジェット、きみは面白い」
「最初から見てたのかよ。…悪趣味な奴」
ジェットは吐き捨てるように言った。
ボイドはジェットの手の戒めを解いた後、ついでのように自然なしぐさでナイフをジェットの頬に突き立てた。ぎち、グチュ…と金属繊維とバイオ素材の皮膚が悲鳴をあげる。
「がっ…あ、…ぁああああ!!」
一瞬遅れてやってきた激痛にジェットは絶叫した。ヒトの血液に似せた赤っぽい色の循環液が吹き出した。
「顔は意外に柔らかいのだね」
ボイドはナイフでえぐった傷口に指を突っ込んで確かめると、満足そうにそう言ってナイフをハンカチでぬぐい、ポケットにしまった。
表情筋を操るため繊細に作られている顔面の組織を傷つけられ、ジェットは激しい痛みのあまり足元がふらついた。「おお、ジェット。かわいそうに。私の肩に掴まるといい」
ボイドが体を支えようと密着してきたが、ジェットは必死で突き飛ばし、逃れようとした。
(この男は真性のサディストか、そうでなきゃ人格が分裂してやがる…)
ぼたぼたと赤い液体を滴らせながら、ジェットは後じさりしてボイドから距離をとった。

◆ ◆ ◆

ジェットが入室すると、その顔に残るなまなましい暴行の痕に査問委員たちは息を飲んだ。小さなざわめきが起こった。彼らはひそひそと言葉をかわした。
(少しやりすぎではないかね)
(誰の指示だ?)
(私は何もあそこまでしろとは…)
彼らはジェットの怪我の理由に心当たりがあるようだった。やはりそうかと、ジェットは確信する。あの男たちは彼らがさしむけたのだ。おそらくジェットを挑発して喧嘩沙汰を起こさせることを計画していたのだろう。ジェットが少しでも手を出そうものなら「サイボーグが人間に怪我をさせた」と大げさに騒ぎ立て、傷害罪の方面から軍法会議にかけるつもりだったのだ。
しかし実際にはジェットは一方的に暴行されただけだった。まさにその現場をボイドが押さえられているし、怪我を負ってふらふらと歩くジェットを基地内で多くの者が目撃していた。査問会はジェットに同情が集まることを危惧したようだった。いつも通りの脅迫めいた取り調べが終わると、彼らはジェットが自室に戻ることを禁じ、懲罰房に入るよう命じた。

作品名:Solid Air(前編) 作家名:桑野みどり