我が心臓に杭を
距離はまだだいぶ遠いが、石造りの廊下にカツカツという靴音はよく響く。特徴的なその歩き方は、間違いなくカロウ(妹)だ。
しのび歩きの生徒は、その足音におどろいたように立ち止まり、あろうことかスネイプのいるほうへ逃げてきた。
(グリフィンドール生というものは私に嫌がらせをするのが習性なのか?)
胸の内でありったけの呪いの言葉を吐きながら、スネイプはその人物を待ち受けた。
◆ ◆ ◆
ネビル・ロングボトムは角を曲がった瞬間、あまりの驚きに呆然と立ち尽くしてしまった。
目の前に、なぜかセブルス・スネイプが倒れていた。
ネビルは動揺しながらも懸命に頭を回転させた。
とにかく目の前のもの…倒れているスネイプを観察してみることにした。
・顔色がすごく悪い。
・普段から顔色のすぐれない人だけど、今は本当に死にそうな顔色だ。
・唇の端に血のようなものがこびり付いている。
・というか、血だ。たぶん血を吐いた。
ただし死んではいない。これは明らかだった。なぜなら彼は倒れたままの姿勢で、乱れた前髪の隙間から、殺意のこもった物凄い目でネビルを睨んでいるからだ。
なにやら大変な現場に遭遇してしまった…!とネビルは背筋が寒くなった。
「だ…」
動転のあまり、ネビルは思わずこう口走った。
「誰にやられたんですか!?」
スネイプの眉間のしわが深くなった。
(うわ、これじゃまるでこいつを心配してるみたいじゃないか!スネイプは敵!スネイプは敵!)
ネビルは、ダンブルドア派の生徒の誰か、あるいは教員の誰かがスネイプを攻撃したのではないかと思っていた。闇の魔術に秀でたこの男がそう簡単に攻撃をくらうとは思えないが、まぐれということはありうる。仮にもホグワーツの校長であるスネイプを攻撃したとあっては、その人物はただではすまない。恐ろしい報復を受けるに違いない。その人物を助けなければならない、と焦った結果が先程の台詞だった。
「…誰でもない」
スネイプはかすれた声で言い、まだひどく苦しそうな様子なのに、無理やり立ち上がろうとした。
「あ…!」
崩れそうになった体を、ネビルは反射的に支えた。
(細い…。ちゃんと食べてるのかな、この人)
漆黒のローブに包まれた肢体の、予想外の細さと軽さにネビルは衝撃を受けた。
「さわるな…!」
スネイプはネビルを押しのけようとした。だが力が入らないようで、その抵抗はひどく弱々しい。
ネビルは混乱しながらスネイプを抱きとめていたが、カツカツという足音がかなり近くまで来ていることに気づき、青くなった。
(この状況はやばい…!)
いろんな意味でやばい。とネビルが慌てていると、ぐいと腕を引かれた。
少しだけ回復したらしいスネイプが、ネビルを引っ張って早足で歩き出す。
(え…?)
困惑したが、スネイプが何か必死な様子で、苦痛を堪えながらやっとのことで動いているように見えたので、ネビルはおとなしくついていった。
数メートル行ったところに、木の扉があった。物置か何かのようだ。スネイプは驚くほど素早く扉を開け、ネビルを中に放り込み、自分も倒れ込むようにして入った。
ネビルが唖然と見つめている間に、スネイプは今入ってきた扉に向かってさっと杖をひと振りした。
埃っぽい小さな部屋の中で息を詰めていると、すぐ外を足音がカツカツと通りすぎていった。足音は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。ネビルはほっと安堵の息をついた。
スネイプは力を使い果たしたというように、ぐったりとしていた。
(もしかして…助けてくれた…?)
ネビルは目をみはった。
苦しげな荒い呼吸を繰り返し、紙のように白い顔色で呻き、身もだえる男の様子は、とても演技には見えなかった。
彼は本当に、死ぬほど苦しんでいる。そんな息も絶え絶えの状態なのに、校則違反を見咎められそうになっていた生徒を助け、かくまってくれたのだ。
(なぜ…?)
ネビルは戸惑った。
「ぐッ…ぅ…う…!」
スネイプが胸を押さえるようにして体を丸め、苦しそうに咳き込む。咳に妙な音が混じっていた。
びしゃっ、と何かが床に落ちる。
黒ずんだ赤。鉄錆の匂い。ひゅうひゅうと鳴る喉。
がはっ。
また血を吐いた。
「せ…んせいっ!スネイプ先生!」
ネビルは死にかけている男にとりすがった。敵だとか、闇の魔法使いだとか、ダンブルドアを殺した裏切り者だとか、そんなことは頭から消えていた。ただ、苦しむ彼があまりに痛々しく、今にも儚くなりそうで。なんとかして彼の苦痛を和らげてあげたいとネビルは願った。
「病気…なんですか。それとも呪いを受けたんですか?どうして、どうしてこんな…!」
ネビルが震える手でスネイプに触れると、スネイプは自身の黒いローブの内ポケットを探るような動きをした。だが指がふるえてうまく動かないようだ。
「これですか?」
ネビルはそれを取り出すのを手伝ってやった。
出てきたのは、何か小さな種のようなものが詰まったガラスの小瓶だった。スネイプはそれをざらざらと何粒か取り出し、口に入れた。
がり、と噛み締める音。薬だろうか。しばらくすると、苦悶に喘いでいた表情が少しやわらいだ。
ネビルはその小瓶の中身をじっと見つめた。独特の色と形をした種だ。薬草の一種だろう。
(どこかで見たことが…)
ネビルの脳裏に、今は行方知れずとなっている友人の声がよみがえった。
――魔法界にも麻薬ってあるのね。だけど規制がほとんどないなんて、信じられない!
――麻薬効果のある薬草の売買を禁じる法律が必要だわ。
(そうだ、ハーマイオニーと一緒に薬草学の勉強をしたとき、本で見た…!)
ネビルは小瓶をひったくってもう一度よく見た。やはり間違いない。
「これ…麻薬ですよ…!?…痛みを抑える効果があるけど、劇薬です。こんな…大量に服用し続けたら、死んでしまいます…!」
「知っている」
スネイプは何の感慨も湧かないような声で言った。普段のスネイプなら、もっと皮肉めいた言い方をするだろう。やはり相当弱っているのだ。
「じゃあ、なぜ…!」
「助かる見込みのない末期患者に使う薬でもある。…あと少しの間、持てばいい」
スネイプは淡々と事実を述べるように言った。
「そんな…!」
「構わない。自ら望んだことだ」
痛みは軽くなったようだが、根本的な原因はもちろん解決されていない。相変わらず悪い顔色と、ぐったりとした体がそれを証明していた。
「どんな呪いをかけられたんですか…」
「呪いではない。いや、ある意味では呪いか…」
スネイプは自嘲するように小さく笑った。
「〈不破の誓約〉だ。…ダンブルドアと交わした。それによって植え付けられた魔法が、内臓を食い荒らしている。私が誓約を破りかけているという警告だ。私が学校を…生徒たちを…守れていない、から…」
薬の効果なのか、スネイプの意識は少しぼんやりとし始めているようだった。黒い目は、膜が張ったようになっている。
「ダンブルドア先生がこんなことを?」
ネビルには信じられなかった。あのダンブルドアが、こんな残虐な魔法を…?しかも、様子からしてどうやらスネイプは敵ではないらしいのに。
しかしスネイプは首を横に振った。