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【相棒】(二次小説) 深淵の月・わたしの人形はよい人形1

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 並んでいる人形達はあの奇怪な家の中で見た人形とよく似ていた。リアルだ。とことんリアルなのだ。あの等身大のものがないだけで、無造作に飾られていた様々な人形と全く同じだった。
  「…仁…これ…。」
  「ああ…いわゆる生き人形いうやつやなあ…。」
まじまじと見つめる二人。しかし、と同時に考える。ここのは本来の意味合いやのうて稲川さんの方やんなあ、と。

 「生き人形」とは江戸の末期に流行った見世物興行が起源の人形である。精巧かつ緻密、限りなく本物の人間に近付けた人形で、現代のマネキンの原型とも言える。遊女や町娘、歌舞伎役者などを本物そっくりに作り展示したりしたが、それだけでは面白くないというので様々な物語の場面(シーン)を再現したり化け物を拵えて展示したりと趣向を凝らして一気に庶民の人気を浚った。娯楽の少なかった時代の町民たちの心を掴んだのは技術を持った人形師が数多く存在していたからに違いないと、民俗学専攻の怜は思う。しかし残念な事に元々が見世物用だった為「作品」として現存するものが極めて少なく、江戸末期から明治にかけて一世を風靡した「松本喜三郎」の作品が幾つか残っているくらいだ。それから時代が下って昭和に入り、二代「平田郷陽」が大衆向けだった生き人形を芸術の域にまで高めた事は有名だ。同じ生き人形師だった父・初代平田郷陽に徹底的に実体写実を叩き込まれた彼は数多くの作品を残した。生き人形というどこか生々しい表現があてはまらず、しかしそれ以外形容しようがないという正に「生きた人形(ひとがた)」は八十年以上時の経った今も優れた胡粉の技術によって命を保っている。
 怜と仁がそういう人形の存在を知ったのは大阪での修行時代だった。道場主であった怜のおじが展示会のチケットをくれたのだ。「江戸から平成へ~生きた人形の世界展~」と銘打たれた展示は正にこの二人の人形師、松本喜三郎と平田郷陽を中心にしていたのだった。
 松本の作品は後年移り住んだ生地でもある熊本から多数提供されていた。熊本の役所の観光課が尽力し、失われかけていた作品の保護と保存に努めたおかげで幾つか再発見されたものも多かった。最も有名な谷汲観音、実盛像、黄玄朴像、これらが喜三郎のメインとして飾られていた。郷陽は答礼人形「桜子」、児戯興趣、児と女房、桜梅の少将、そして怜と仁が最も感銘を受けたのは「粧ひ(よそおい)」であった。
 夏の宵に湯上りの女が鏡の前で化粧をしている一瞬を捉えた作品である。ほんのりと上気した頬、薄白粉の香りまでしてきそうな艶やかな肌、さした紅の赤、透けた薄物の単、右にかまえた紅玉(珊瑚)の簪。道具である鼈甲の櫛の細部に至るまでも、全てが「息をしている」としか言えない素晴らしい芸術。美しい日本女性は平成の世になってもその姿を保っていた。
 あまりの技術に圧倒され、十代の二人は興奮して戻った。おじは本物の生き人形は素晴らしい芸術だ、しかしそうではない生きた人形もいると言って二人におぞましい話をした。その時に彼が言っていた事を怜と仁は忘れられない、「人形師は人間の心ではなく菩薩の心でヒトガタを造らなければならない」と。
 今あまりにもリアルな人形達を前にして二人はそのおじの言葉を思い出していた。菩薩どころか人間どころか、この松宮遙という人形師は鬼の心でこのヒトガタを造ったのだと。
  「仁…この人形さん、」
  「入ってるわなあ…。」
  「いてるわなあ…。」
二人顔を見合わせる。というか、目の前の琴を奏でる着物女性の人形だけでなくこの会場に飾られている人形全ての“中”に、居るのだ。有象無象の“ヒトの念”が。生きているもの死んでいるもの取り混ぜて、ありとあらゆる念がこもっている。しかもポジティブな良い想念は一つも無い。恨みつらみ妬み嫉み、およそ建設的なものなど皆無なのだ。うわあ…と二人揃ってドン引く。ここまで一つ処に溜まってしまった悪念はもうこの土地そのものを浄化させる「地祓い」をするしかないだろう。この会場どないすんねん、と人のいい二人は心配になった。その事実そのものが先刻考えた“稲川さんの方”を証明するようなものだった。

 「生き人形」という単語に対し“稲川さんの方”というのは、今となってはあまりにも有名な日本屈指の人形怪談、「生き人形」の事である。三十年以上前に日本中を恐怖に叩き落とした正に“本当にあった怖い話”である。今の働き盛り世代にとっては見世物を起源とする素晴らしい作品たちよりも、「生き人形」という単語を聞けばむしろこの稲川氏絡みの人形の方をすぐに連想するだろう。それくらい当時のテレビ視聴者にとっては衝撃だったのだ。
 怜と仁は生まれてもいないが件の天下茶屋のおじに事の顛末を聞かされてはいた。クリティカルに世代だったのだ。芝居の道具として使っていた市松人形に何らかのモノが取り憑き数々の怪奇現象を起こしたというものだ。本来工業デザイナーであった稲川氏を全く別ジャンルの“オカルトテイナー”として一躍有名にしてしまった恐怖の人形である。スタジオで起こった怪異の数々、その騒動の後に辿った人形そのものの顛末が実に出来すぎというほど恐ろしいものだった。当時名前の知られたオカルト系の漫画家がこのエピソードを漫画化し、「描いた私も祟られた」として実体験をまた後日談として漫画にした事は知る人ぞ知る有名な話。しかも挙句の果てに当の人形そのものが消えてしまった。行方がわからなくなってしまったのだ。所有者も最終的なそれは誰だったのか不明という、かの人形は今もどこかの誰かの許にいるものやら既に壊れてしまったものやらそれは誰にもわからない、既に都市伝説の範疇に入るほどの経緯だ。その市松人形の中に居た“もの”は何なのか、結局明確に答えられる者はいない。しかし何かが居たと、関係者の多くはそう語る。実際に見た事のない怜と仁はともかく生放送のテレビ番組を見ていたおじは言う、あれには確かに何かが宿っていたと。
 その件の「生き人形」、それと質を同じくするものがここにごろごろと転がっている。松宮遙、この人形師が神戸を連れ去ったのは絶対に確かだと二人は確信した。あの得体の知れない部屋へ何が何でも辿り着かなければならない。あの一軒家は多分松宮の自宅かアトリエだ、ここに何らかの手がかりがないかと二人は密かな捜索にかかった。