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【相棒】(二次小説) 深淵の月・わたしの人形はよい人形3

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  「や めろ」
必死だった。四つんばいで手足を動かし壁伝いに逃げを打った。だが二歩分進んだだけで怜の腕が松宮の華奢な首を捉えた。ぐっと締め上げられつつ信じられない事にそのまま持ち上げられた。怜の腕のリーチ分上方に高々と吊るされた。かはっと声も出ずに哀れを誘うように見下ろしたが怜の仁王のような顔は変わらない。冷たい。この世に無慈悲という概念を形にしたならそれはきっとこの女の顔だ。
  「それはちゃうで松宮。」
驚愕して僅かに眼球を動かす。仁の静かな顔が見えた。
  「コイツほど慈悲深い女はおらんで。無慈悲言うたらそらあ松宮、アンタのこっちゃ。」
  「この犠牲者達の前でよう考えるわそんな事。」
ケッと心底侮蔑して怜がぎりぎりと更に腕の力で捩じ上げる。舌を突き出し白目を剥きながら松宮はただひたすらそれに耐えた。やがて怜が部屋の中央へとその体を放り投げた。決して屈強でもない怜が人一人ブン投げたのである。蜘蛛の側に投げ出されて松宮は必死にその陰に隠れようとした。それを冷たく一瞥して怜は黒いジーンズの尻ポケットからそれを出した。彼女の唯一の武器、白いスティックである。
  「!!」
言葉のない気合と共に怜は土の地面にそれを突き刺した。その瞬間ぶおっとスティックから黒い何かが一気に円形に広がった。がくん、蜘蛛の巨体が傾いだ、その真っ黒な空間に静かに落下していくのだ。
  「…っ!!!」
慌てた。松宮は心底慌て、また人生最大級の恐怖に襲われていた。これは何だ、この空間は一体なんなのだ。ヒトが居るべき場所ではない、バケモノとて居る所ではない。宇宙か?宇宙の真空空間なのか?違う、何か聞こえる。下の下から底の底から、果ての無い距離の行き着く先の、まだ奥の方から。その“声”は聞こえてきた。
  「やめろ!」
両手両足を必死に動かして円の外側へ逃げた。まだ落下はゆっくりとしていた為蜘蛛の体を蹴りつけてまで松宮は逃れた。蹴られた女郎蜘蛛は逆に足を少しだけ動かしたがもう力もないのかただ落ちて行くのに任せるしかなかった。音もなく風もなくただ滑るように堕ちてゆくかつての“仲間”。しかし松宮には何の感慨もなかった、ただ自分の身の安全、それだけしか頭になかった。
  「お前ホンマにこっすいやっちゃなあ。」
  「なんやあの蜘蛛のがかーいそうやで。」
同じく円の外にいる怜と仁がうんざりしたように言う。知ったことかと松宮は二人をねめつけた。だがそれも僅かな時だけだった。その円が、染みが広がるように面積を広げてきたからだ。
  「なっ…!!」
裸足の足先が穴の縁に当たる。途端に引力を感じた。
  「!!」
次の一瞬で松宮は右足の殆どを穴の中に引きずり込まれた。反射で松宮は体の向きを変え壁にしがみつく。殆ど意味は為さなかったが。この非常識が理解出来ず松宮はただパニックに陥るだけだった。怜が静かに言った。
  「これは今朝、アンタのオトモダチの蜘蛛が桜田門に仕掛けた罠や。」
  「う、うそ!」
  「そうやな、そのまんまやないからな。あの土蜘蛛が仕掛けたんは“先がどこやら知れんトラップ”や。せやけどこの穴はちっと上級者向けやねん。」
  「この穴の先はなあ松宮。地獄なんかよりもっとおっかないとこや。」
淡々と、そしてさらっと怜が告げた言葉に松宮遙は愕然とした。地獄?地獄よりももっと恐ろしい場所?



 引力が少しずつ増してきた。右足だけでなく左足も引っ張られている、そしてそのせいで体ごと沈んでいきかけている。松宮遙は必死だった。必死に壁に爪を立て、がりがりとそれを引っ掻いた。桐生院怜はそれを何の感情も窺えない顔で眺めていた。静かに続けた。
  「地獄なんてなあ、別に怖いとこちゃうわ。地獄いうんはあの世の更正施設、いわば刑務所や。六道もかけて腐った人間の腐った性根叩き直してくれはるそらあ親切なトコや。」
  「そやけどそれでもアカンいう奴も確かにいてんねん。地獄でももてあますようなどうしようもない輩は、それやったらドコに行くねやって話や。」
  「松宮。どこに行くと思う?」
蜘蛛が音もなく沈んで行った。重力の窺えない穴の中に、一定の速度でただ静かに堕ちて行った。呻き声も鳴き声も何もなく、命の終焉を迎えたかどうかもわからぬままただ底の底に落下して行った。
  「……ひ」
【おおおお…ん】 穴の深みから声がする。これは地獄ではないのか。こんな恐ろしい場所は地獄でしか在り得ない。こんなに魂全てを凍らせるおぞましく冷たい声は、地獄の亡者でしか出せないだろう。幼い頃母に聞いた寝物語が蘇る。血の池地獄、針山地獄、そんなおっかない所で拷問という責め苦を受ける、そんな事にならないように、あなたはいい子でいなきゃね遥。
  「松宮。どこに行くかて聞いてんねや。」
私にとって恐怖の具現である地獄という場所、ここは違うのか。地獄ではないのか。そこよりもっと恐ろしい場所があるというのか。それがこの穴の先だとでもいうのか。
 ずぶ。 体が一気に沈んだ。胸の辺りまで呑まれて足先に凍りそうなほどの冷気を感じた。自然現象としての温度低下では絶対になかった、それが生きとし生ける者としての松宮の正しい認識だった。ずぶ。肩まで穴に浸かった。広がり続ける円の際のきわ、そこに指先をかけて松宮は必死に現世に留まろうとしていた。
  「ここはなあ松宮。桐生院の家が千年の昔からアクセス出来てた六道のそのまた下の世界や。」
松宮の顔が上がった。目が見開いて愕然としていた。なぜなら
  「たぶんやで。正確な所在はたかが人間には誰にもわかれへん、そんくらい禁忌の世界や。」
嵯峨崎仁が言いながらすいと一歩を踏み出していたからだ、円の内側に。飄々とジーンズのポケットに両手を突っ込んで、友人と道で話しているような気楽さで。しかし彼は穴に呑まれない。それどころかまるで磁石の同極反応のように、穴の表面が仁を拒んで押し上げているのがわかる。
  「この世界に行くのはごく限られた存在や松宮。」
怜も一歩を踏み出した。やはり彼女も穴に落ちない。仁と同じように穴そのものがその存在を拒んでいる。なのに自分は引きずり込まれる。抗えない力で引っ張られている。なぜだ。なぜだ。
  「アンタみたいなどうしようもなく腐れた魂の持ち主だけや。松宮遙。」
【きいぃぃああぁぁぁ 】 地の底の声が一層大きく聞こえた。呼んでいる。私を。私の魂を呼んでいる。
  「俺らはなあ、入りとうても入れんねん。この通り穴の方が拒絶しよる。せやからどんだけこの穴に近付いてもなんちゅう事もないねん。」
  「けどアンタは違う。このままやったら呑まれて穴の底で狂うてまうだけやで。」
狂う。何が。気が狂うというのか。あの地の底からの声は気が狂った大勢の“誰か”の叫び声だと言うのか。