タイムアフタータイム
「研究のイロハはわしはいちいち言わん。彼女に訊け」
十三年前、纏邸内の実験室でぶっきらぼうに言った纏博士は再び試験管と向かい合い、試薬をピペットから少量ずつ混入させていった。彼女、と紹介された美木杉と同じくらいの年齢に見える女性は微笑んで右手を差し出してきた。
「黄長瀬絹江です。纏博士の助手をしています。手が足りなかったからあなたが来てくれてとても助かる。よろしくね」
涼やかな目元が二つの弓になり爽やかな微笑みは矢となって美木杉の心を射貫いた。
元々が文系で実験器具を扱うのは高校以来だった美木杉だったが、瞬く間に実験補助のイロハを覚え、彼の飲みこみの早さと真面目な姿勢は纏博士と絹江の信頼を勝ち取るには十分だった。スタッフが増えてからも美木杉は絹江に次ぐ二番手の助手として研究に貢献し、果ては絹江と同等の実験を任されるまでになった。やがて若い二人が恋に落ちるまで時間はかからなかった。
「この子、弟の紬。今度貴方の母校に入学するの」
新たな実験助手として絹江が連れてきたのは、白衣よりもスポーツのユニフォームが似合いそうな筋肉質の青年だった。
「姉貴から話は聞いてます。……姉貴を不幸にしたら、俺がただじゃおかないんで」
同じ目の高さでぎょろりと睨まれ、美木杉は力なく笑った。絹江から両親を早くに亡くし、引き取り育ててくれた叔父も近年亡くなって以来姉弟が寄り添って生きてきたと聞いていたため、弟からの反発は予想の範囲内ではあったがいざ近距離で睨まれると困惑するのも事実だった。
しかし予想よりも紬の反発は少なかった。姉と同じ分野を専攻したせいか、美木杉が文系学科出身でありながら高いレベルの実験にもついてくることに対して尊敬に近い関心を抱くようになったからだ、と美木杉は絹江から憶測交じりで聞いていた。紬自身がそのような事を口にすることなどなかったが、彼の纏う空気は柔らかくなり、四人体制で博士の要求するレベルでの実験を積み重ねていき何もかもがうまく機能していたはずだった。
生命戦維で出来た服を実際に人間が装着するという実験の最中、装置の中で実験体が暴走した。白衣型に仕立てられた生命戦維はまばゆいほどの光を振りまくや否や、着用していた黄長瀬絹江の肉体を繊維状に変え始めたのだ。
「絹江君は喰われた」
纏博士の声がスタッフ全員に絶望を告げた。
「姉貴! 姉貴!」
「やめろ! 下手につっこむと君まで喰われるぞ!」
美木杉と別の助手とが二人がかりで紬を必死に静止した。そこへ纏博士が消火器のようなボンベを持ってものすごい勢いで彼らの前に割り込み、装置のガラス窓を叩き割った。
「下がっていろ!」
纏博士はボンベのスイッチを入れ、装置内に薬剤を噴射した。対生命戦維の鎮静剤が効果を発揮したのか、白衣型の生命戦維は活動を停止し絹江の身体から離れた。薬剤を噴射し終えた纏博士が退くと紬は残ったガラスの破片も厭わず装置の中へと飛び込んだ。
「姉貴、しっかりしろ! 姉貴!」
紬の腕の中に抱かれた絹江は既に体の半分以上が繊維状にほどけていた。
「ごめんね、つむぐ」
呟くように弱々しく告げた絹江に紬はなおも呼びかけ続けていた。
「何言ってんだ、しっかりしろよ馬鹿姉貴。ウェディングドレス着るんだろ? 親父にもお袋にも、叔父さんにも見せてあげたかったって、そう言ってたじゃねえか。こんな服(モン)が最後の衣装だなんて、俺ぁ認めねえぞ! だから気をしっかり持てよ、なあ、起きろ!」
「ごめんね」
再び弟へ詫びを呟くと、絹江は弱々しいながらも笑みを浮かべようとした。
「人と服とはいつかわかり合える。その為に私たちは実験してきたんだもの。実を結ぶ時がきっと来る。だから」
胴のほとんどを失った絹江が最後の力を振り絞って口を開いた。
「実験を、つづけて」
言い終わった直後、黄長瀬絹江の身体と魂ははらはらとほどけ、消滅した。
「絹江さん……」
「嘘だろ、おい、姉貴、なんでだよ、畜生……うおおおおおおお!」
崩れ落ちる美木杉と他スタッフ、慟哭する紬とは対照的に、纏博士は電話機で何処へか連絡を取りはじめた。
「何してんだよ」
我に返った紬が纏博士に詰め寄った。
「新しい装置の手配だ。実験を続けるのに装置が壊れていては何の意味もない」
「それでもアンタ人間か!? 人ひとり死んでるんだぞ!? 姉貴殺しといてふざけたこと言ってんじゃねえぞ!」
纏博士に掴み掛らんとする紬に美木杉はなんとか追いつき後ろから羽交い絞めで押さえた。纏博士は表情を変化させることもなく若者達に背中を向けた。
「実験は続けろと絹江君自身が言ったのだ。故人の遺志だ、中止してなんとなる」
「こっのぉ……!」
怒りのあまり美木杉を振り払って纏博士に再び掴み掛かる勢いだった紬は、振り上げていた拳をそっと下ろした。
「服と人がわかり合うなんて夢まぼろしじゃねえか。もういい、仲良しごっこは終わりだ。俺は、この世の中から全ての生命戦維を滅ぼしてやる。それがあの馬鹿姉貴への弔いだ」
作品名:タイムアフタータイム 作家名:河口