空想の戦場
しかしその二時間後、ロイのテントにヒューズは現れなかった。
異性に対しては、待つことも待たされることも平気、よく言えば寛容悪く言えばズボラなロイだが、この法則は同性には働かない。それでも30分オマケしてみたが来ないので、仕方なく資料を抱えてヒューズのテントを訪れた。
折しも陽が西の砂漠の中に沈もうとしている頃で、テントの中は薄墨を流したような色をしていた、その、入り口と平行に置かれたベッドの上で、ヒューズはこちらに背を向けて横になっていた。
ロイは呆れたように、まず吊り下がっているランプに灯を入れた。机の上には書きかけの書類が積んであったが、構わず持ってきた資料をその上に乗せ、
「ヒューズ」
と彼の顔を覗き込んだ。
ヒューズは、眠っていた。
少し開いた唇から苦しそうに短い呼吸が漏れ、毛布もかけずにいるのに顔や首がひどく汗ばんでいた。
ロイはヒューズを揺すった。起こさねば仕事にならない。悪い夢を見ているなら、尚更だと思ったのだ。
と、パッと瞼が開いたかと思うとロイは突き飛ばされ、上から充血した眼を見開いたヒューズが圧し掛かった。判然としない言葉のようなものがこぼれ、ブラックブレードのナイフが咽喉元に突きつけられた。
「お前たちだって、殺したじゃないか!」
今度ははっきりと聞こえた。ずっと、ヒューズを眠らせないものの正体。切っ先の、一押しで急所を貫ける距離に、ロイはヒューズの眼を見返した。
「ヒューズ」
その声に、ヒューズの肩が小さくなった。眼に、色が戻ってくる。
「ヒューズ、俺だ。分かるな?」
ちくり、と顎の下辺りに、針で刺した程度の痛みを感じた。
「………マスタング少佐?」
「もうロイでいい。お前にそれで呼ばれると気持ちが悪い」
「すまん」
立ち上がると、ロイはスツールへ腰を下ろした。ヒューズには横になるように言うと、彼はおとなしくそれに従って、ロイの方を向いてベッドに横たわった。
「昼はいい。動いていれば思い出さないから。眠ろうと思って目を閉じると…イシュヴァールの民兵が、俺を殺しに来るんだ」
困ったもんだろう、とヒューズは笑ったが、ロイは笑わなかった。
「第五連隊の…報告書を読んだ。自然災害は仕方ないが、あの作戦には無理があった。俺なら絶対実行しないな、上官が無能すぎたんだ」
「捕虜にされていく仲間を…見ていたんだ」
「お前は部下を守った。この状況では十分だ」
「だけど、あそこで助けていれば、もしかしたら」
「結果論だ。ヘタをすればお前も捕虜にされ、死んでいた」
「それでも構わなかった」
ヒューズの眼は、どこか遠いところを見ているようだ。彼の夜にやってくるのは、イシュヴァールの怨嗟だけではない。
「……俺が困る」
「…困るのか?さっきまで俺のこと、思い出せなかったくせに」
頬杖をついて呟いたロイの言葉に、ヒューズは苦笑した。
「困るよ」
隙間から入り込んできた風に、ランプの灯が揺らいで鳴いた。
「ロイ、俺な」
改まったように、ぽつりと言った。
「捕虜の救出に行った時、子供、殺した。お前にそっくりで、すごく、びっくりした」
そうしてぽつりぽつりと話し続けるヒューズの声が、次第に小さくなっていった。
ロイは自分のテントへ戻ろうとしたが、いつの間にか服の袖を掴まれていた。ヒューズは先程とは違って、穏やかな寝息を立てている。今夜はもう、追われずに眠れるといい。
ロイは袖を掴ませたまま、ベッド脇の荷物に寄りかかって眠った。
少し、風邪を引いた。