天使への遺言
◆4
パタパタと、駆けてきた割に扉の前で何か一息でもついているのか静かになった。もしかしたら、深呼吸でもしているのか?
そして――穏やかなノックの音。
こちらから、ゆっくりと扉を開いてはみたけれど、以前のように扉の隙間から入り込んでくる気配もない。
そういえば、今までノックをしないことがあったのは「一刻も早くジュリアス様とお会いしたかったんですー」だからそうだ。そう笑いながら言われた。……本当かどうかわかったものではないが。
「こんにちは、アンジェリークです。ジュリアス様にお会いし……」
おまえが、大きな緑色の目をより大きく開いて私を――いつも出迎える側仕えではなく――見る。ついでに口まで大きく開いたままなのには参った。堪えきれず、私は笑ってしまった。
「え、あの、ジュリアスさ……」
また途切れる。瞳が、私の顔や全身を捉えたかと思うと、私の背後にある執務室の内部へと移っていく様子が見てとれる。
「入るが良い」
もう笑ったままで私は、おまえを執務室へ招き入れ、いつも側仕えがするようにおまえを、私の執務机のところまで連れて行った――ただしそこにはもう、書類はもちろんのこと、机の上の羽根ペンをはじめとする小道具類、そしてありとあらゆる、もろもろの物はなくなっていたのだけれど。
「おまえやロザリアより先行して、我ら守護聖は主星にある聖地へ戻る」あ、と小さく呟いて頷き、合点のいったらしいおまえの表情を見つつ私は続ける。「あらかたの荷物は送ったのだ」
「そ……そうでしたか……」改めて、大きな家具だけが残ってがらんとした部屋を見回した後、おまえの視線は再び私に戻った。
「ジュリアス様、その服……」
おまえが驚くのも無理はない。私はこのとき、いつもの執務で着用しているものではなく、それこそ主星の民たちがちょっとした場に出る際着るような平服姿だったからだ。
「聖地へ戻る前に、立ち寄る所があるのでな」
それだけ言うと私は、おまえを見た。
「……ディアのもとへ行ってきたのだな」
おまえの表情が引き締まった。
「はい。ロザリアが補佐官になってくれます……それで、即位の儀自体は一ヶ月後と言われました」
「そうか」
そう言って頷くと私は、おまえの手を取って跪いて告げる――心からの喜びをもって誓言を。
「光の守護聖ジュリアス、新女王陛下に永遠の忠誠を捧げます。すべての光が、陛下の御為に輝かんことを」
そう奏上して頭を垂らす。
久しぶりに触れる温かな手――あの新宇宙へ二人して訪れた日の後、それほど日を経ずにしてエリューシオンの民が大陸中央の島へ到達した。それとほぼ同時に我らが宇宙も新宇宙へと移行したのだが、その全てを担い、導いたのは……他でもない、この温かで柔らかな手の主であるおまえだった。そうして息もつけぬほど互いに多忙な日が続き、落ち着いて会う機会がなかった――いや、機会がなかったというわけではないが――
「ジュリアス様のおかげです」
その静かな中にも凛とした物言いに、思わず私は顔を上げた。
「感謝しています。これからもどうぞ……よろしくお願いします」
胸が熱く、そして痛くなった。
だから、なるたけ平静を保てるよう話を切り替えるべく私は立ち上がり、言った。
「で……おまえは用があってここへ来たのであろう? 『約束』……『ニンジン』を得るべく」
とたんにおまえは、きまりの悪そうな表情になった。
「んもうっ! 『ニンジン』は言わないでくださいよぅ」おまえはそう言って頬をふくらませたけれど、すぐにそのような表情を控え、遠慮気味に言った。「あ、でももう……お出かけになるならまた後にでも」
「いや、私はおまえを待っていたのだ。だから良い」
そう言って私が、笑いながら執務机にもたれるようにして腰掛けると、おまえはまた、何かにとらわれたような表情に変わった。
「……どうした?」
「何だか……」探るようにおまえは言う。「ジュリアス様……変」
「どこが」ありすぎる心当たりを押し隠しつつ、軽い調子で言う。「いつものとおりだが」
「何だか……優しすぎる。それに……」
「優しすぎるとは失敬だな。次期女王陛下に厳しくする訳にはいかぬであろう?」
おまえがこれ以上私について何か言うのを避けるべく、穏やかにおまえの言葉を封じて私は、再びおまえに尋ねた。
「それで? めでたく女王と決まったおまえが私に望む『ご褒美』とやらは何だ?」
そう私に言われておまえは、急に気合いの入ったような表情に変わった。本当に、この表情の変化の目まぐるしい様には今でも驚かされる。出会ったときには閉口したものだったが。一方おまえは、ごくん、と私に聞こえるほどの音で唾を呑むと、私を真っ直ぐ見つめ……その一大決心の様相にしてはずいぶん小さな声で告げた。
「ジュリアス様に……キスしたい」
一瞬にして、私の頭の中は真っ白になった。
「……え?」
「頬やおでこじゃないですよ」何故か急に喧嘩腰になっておまえはまくし立てる。「唇に、です。それも、ちゃんと、『大人』の……!」
顔を真っ赤にして、おまえは言い切った――とんでもないことを。
「『大人』のキスまで、しっかり、させてもらいますから!」