天使への遺言
おまえほどの年齢の少女とそうそう接することもないので、いったい何を褒美にねだるのか……たとえばどこかへ出かけるとか、ドレスや宝石を望むとか――いくら想像してみても私にはわからなかった。だから、どのようなことであってもある程度は対応できるよう余裕をもって、おまえが来るのを待っていた。
だが……何故。
絶句した後、それでもどうにかして私は気を取り直そうとした。
「何故、私などと……それに、おまえは」
気を取り直すつもりが、やはり混乱しているのか、私としたことが、よりによって拙いことを尋ねそうになり慌てて口を噤んだ――おまえにそのような『経験』があるのか、などと。
だがすでに遅く、おまえに察知されてしまったらしい。不服そうな顔をしつつ言ってきた。
「は……初めで、ですよ。男の人とのキス自体、初めて」
私を憎からず想っていてくれていることは、先日の私の指先へ口づけていたことで、おぼろげにはわかっているつもりだ――お互い、はっきりと意思を伝え合ったわけではないけれど。
だがしかし。
「何故……おまえから?」
いや、私から、であっても多々問題はあるが。
「……記念です」
「は?」
また意味不明なことを。
「だって、ファーストキスの相手が、光の守護聖様だなんて……そうそう経験できることじゃないもの! すごくいい記念になると思って!」
そう元気に明るく言い放った後、小声で何か呟いたようだったが私には聞こえなかった。
それにつけても私は、おまえの言っていることの意味が全く理解できずにいた。だが、喋るどころか、まばたきごと止めてしまった私に業を煮やしたのか、はたまた恥ずかしさのあまりなのか……おまえは、なおも必死になってまくしたててくる。
「だ、だから……光の守護聖たる者、約束したからには絶対に果たしてもらわないと……でしょ? ジュリアス様!」
だから、本来私から約束した覚えは――ああもう、そのようなことを今更申し立てても詮無いことだ。何はともあれ、そして、どのようなことであれ、おまえとの『約束』だけは果たすつもりでいたのだから。
ようやくそこまで私が思い至ったとき、すでにおまえは私の目の前に立っていた。執務机に腰掛けている格好なので、おまえよりずっと背の高い私の顔の位置は、多少なりとも低く、そしておまえに近くにあった。
思わず私は、おまえの唇を凝視してしまった。
そのような私の視線に気づいたのか、おまえは「目……目を瞑ってください!」と叫んだので、唇を見てしまった疚しさもあり、言われるままに目を瞑ってしまったものの、まだ私は混乱している。それほどに、あまりにも意外な願い事だった。
そのような混乱の極みの中で私は、訳のわからないことを思い始めた。
何が、「記念」だ。どうせなら「キスしてほしい」と願うほうがまだ可愛げがあるというものだ――いや、それについてはどうでも良い、それより、そもそもそのような言い草からして可笑しいではないか……まるで何かに化かされたような気がする……たとえば。
はっとして私は、思いついた言葉を頭の中で反芻する――そう、たとえば、『肝試し』とか。
そこで気づいた。それが証拠に、私が目を瞑ってから、いっこうにおまえの動く気配がない。これはまさに、このような状態に追い込まれ、狼狽した私を嗤っているからではないか――
そのとき。
パン!と大きな音がして、私の思考は停止した。そして思わず目を開けると、目前には手を叩いて大笑いしているおまえの顔があった。
「はい、ウソでーす!」極めて明るく、おまえは言い放つ。「面白かったぁ! ジュリアス様ってば、目を瞑りながら百面相になってましたよ!」
百面相はおまえの専売特許ではないか。それに『肝試し』という思いつきに、やはり当たらずとも遠からじであったか、と一瞬だけ、思った。
一瞬、だけだ。
何故なら私とて、どこかでわかっている――これは、真剣過ぎるが故の茶番劇なのだと。それが証拠に、おまえの笑う声は異様に甲高く、私の目を見ようともしない。
それを見取った瞬間、すっ、と私は落ち着いた。
「ならば、おまえの本当の望みは何だ?」
おまえの戯れ言に怒るでもなく静かに言ったことが、むしろおまえを狼狽えさせたらしい。
「あ……え……っと……」
慌てて執務室を見回すこと自体、滑稽だ。もう荷物はほとんど残っていないのだし。だが何か思いついたらしい。ぱっと明るい表情になってみせて、おまえは言う。
「あ……あの……あっそうだ、ジュリアス様の羽根ペン! 羽根ペンをください!ただしジュリアス様が使っているもの……今使っているのがほしいわ! 前みたく新品じゃなくて!」
「荷物の中にまとめてしまったが」
そう答えて私の見た先にある小さなトランクを、おまえも目で追った。
その目が潤み始めている。
「あの! 主星に行ってからでいいですよ、また、いただきに伺いますから……じゃ、お忙しいところ、おじゃましま」
「待て、アンジェリーク!」
踵を返し、去ろうとするおまえの手首を私はつかんだ。
「は、離してくださいっ!」
そうおまえは言って抵抗したが、男である私の力に抗えるものではない。それに、どうにか顔を私に見せまいとしたことには成功したようだが、落ちて足もとの絨毯に染みてゆく雫を止めることはかなわない。
「んもう……ジュリアス様ってば!」低く小さな嗚咽を混じらせつつ、おまえは叫ぶ。「軽く受け流してくれたらいいのに……!」
「アンジェリーク……!」
「あんなに眉間にいっぱいシワ寄せて、すっごく難しそうな顔して考え込んじゃって」
「……アンジェリーク」
名を呼べど、無視しておまえは呟いている。もっとも、「そんなにイヤなの……? 私とキスするの」とは、極めて小声で言ったようだが、目前にいるのだから私にもよく聞こえている。はたしてそれが聞こえよがしなのか、無意識なのか、わかったものではないが。
「アンジェリーク」
ゆっくりと私は、まるで口の中に転がすような気持ちでその名を呼んだ。それが功を奏したのか、やっとおまえは恨み言を連ねるのをやめて黙った。