天使への遺言
再び広場の石畳を、今度はおまえと二人して歩く。
「うふふ、嬉しいな……」
すぐ横で、もうすっかり私が受け入れると思っているらしいおまえがいる。これから私のやろうとしていることは、少女のおまえには酷だろうか。
そのような想いに囚われていたそのとき。
「そうだ、私がジュリアス様を好きになったきっかけをお教えしましょうか」
本当に、易々と言う――易々と、私の心に課せられていたものを溶かしていく。
「……話してみるがいい」
「最初は、ジュリアス様というより……ジュリアス様の手が好きだったの」
おまえは言う。
最初は、質問しまくって、絶対女王になって見返してやる!と思って執務室に通っていました。でも、ジュリアス様はとても忙しくて、待たされることも多くて退屈だったの。でも……ジュリアス様は熱心に執務に打ち込まれていて、さらさらと羽根ペンを使って書いている文字が綺麗だなぁって思って見ているうち、その文字を書いている指や手が綺麗と思って、その姿を眺めるのが楽しみになったの。
ああ、それで、と私は合点がいった。
「要するに……羽根ペンではなく、私の手を見ていたのだな」
そして、あの遊星盤の中で私の指先を愛でていたことを思い出すと、やはり今でも面映ゆい気持ちになる。
「……で、そのうち、お人柄も良いことに気づいて」
「それは……嫌みか?」
「半分以上」
すかさずそう言って、ぷっ、と吹き出すとおまえは私を見た。
「で、ジュリアス様は私のどこが?」
「調子に乗るな……ああ、あれを見よ」
私の示した先にあるもの――人だかりの中にある『天使』の像を見ておまえは、立ち止まるとぎゅっ、と私の手を握る手に力を込めた。
「……私……?」
先程同様、それほどの数ではないものの、民たちが天使像の手に触れ願っている。
「天使さまのところに早く早くー!」と子どもが親を急かしている声も聞こえる。
そのような様子を目の当たりにしたおまえは、しばし呆然としていた。
「……どうだ?」なるたけ感情を込めず、私は言う。「これでもまだおまえは、このようなエリューシオンの民を……宇宙を捨てて、女王になることを辞退すると言うのか?」
そして私と……添い遂げようと言うのか?
ただしそれは、声に出しては問わなかったけれど。
「おまえという存在と与えられた使命について、もう一度考え直すつもりはないか?」
考え直されて、去っていかれたら私はとても寂しく悲しいだろう。けれど、こればかりは、はいそうですかと享受できない自分がいる。
しばらく黙ったまま、像と人々を見つめていたおまえは、ゆっくりと私のほうを見た。
そして……笑った。
「だめですよ、ジュリアス様」微笑みながらおまえは続ける。「だってもうエリューシオンは、私だけを――あるいは女王や守護聖方だけを頼らなくても、こうして生きているもの」
「だがあのように慕われて」
「慕ってくれるのは構わない。でもあれは私をかたどった像であって、私ではないもの。私はここに……こうして、ジュリアス様、あなたの側にいるもの」
それはもう、痛いほど実感している。像のおまえなど……比べようもない。
「それに宇宙も同じ。女王試験でのエリューシオンみたく生まれたてのときはともかく、あくまでも女王や守護聖は、民たちのお手伝いをしてあげるだけ。ましてや私ひとりが守るものじゃない」
この私が、おまえに宇宙や女王と守護聖について説かれようとは思わなかった。だが私は、異議を唱えることなく聞いていた。
「そうそう。私、さっき、ジュリアス様には私『しか』いない、なんて言っちゃったけど……当然、逆もあるんですよ」
はっとして、私はおまえを見る。
「ジュリアス様『だけ』を必要としている、この私がいるんですよ」
そう言うとおまえは、今日会ってから初めて目を伏せた。
「ジュリアス様は……そうじゃない? やっぱり私の思い込み……でした?」
本当に、易々とおまえは私の望みを言い当て、しかもそれを成就させてくれようとする。いみじくも、マルセルの申したとおりか――私の希望。おまえを失うことは、私の希望を台無しにすることだと言った彼の。
おまえに、私を必要としていると言われてこれほど嬉しいことはない。しかもそれは、女王が守護聖に言っているのではなく、アンジェリーク自身が私を、と言っている。
そしてそれは、いつの間にか私にとっても――
像に祈る民たちを眺めつつ私は、おまえの手を強く握って告げる。
この手を、もう二度と離しはしない。
「……挨拶に行かねばなるまいな」
「え?」
「……聖地へ……新女王陛下と守護聖たちに迷惑をかけることになるから……」
私の、少しは苦悶の入り交じった文言に対しおまえは、俯いていたところから、ぱっと明るい表情に変わった。どうやら、百面相ぶりは変わらぬようだ。
「……はい!」
笑顔で良い返事をする……まるで、女王候補の頃のように。
つられて私も笑った。だがおまえが笑顔のままなので、もう私はあの『ぞっとするような』笑い方はしていないのだろう。どうやら今度は、笑ってもマルセルたちをおびやかすことはなさそうだ。
そうして私は、クラヴィスのことを思った。とくにあの者にはきちんと挨拶しておかねばなるまい……どれほど罵られようと、あるいは冷笑を浮かべられようと。
「そういえば、クラヴィス様が」
「な、何だ」
先程といい、今といい……私の思っていることがわかるのか、おまえは。
「これも伝えてほしいって言われました……おまえがいなくなってせいせいするが、怒る顔や声がなくて寂しくなるな、と言いたかったのに、とっとと行ってしまった、相変わらず、せからしい奴だ、って。勝手にひとりで思い込まず、もっと落ち着いて人の話を聞けって……私もそう思いますけど」
「よけいなお世話だ」
少しふてくされて言いはしたが、嬉しく思っている。
意外と……気を遣われていたことに、今さらながら私も気づく。あの男も存外素直ではないから、そのような表面的なことばかりにとらわれていたようだ。
「あ、それと……女王陛下とはきちんと話をしたからな、ともおっしゃっていました」
「……そうか」
それは良かった……本当に、良かった。
「……話をしたって、何のことですか?」
「ひ・み・つ、だ」
そう言って、おまえの真似をすると、わざとらしい顰め面をして見せはしたものの、おまえはそれ以上問わなかった。