天使への遺言
◆2
「……それで」
「何ですか?」
にっこりと、邪気のない笑みを浮かべて、おまえが言う。
「……それでおまえは、何故この私に、数式の解き方まで尋ねているのだ」
「あら」
まるで悪びれる様子もなくおまえは、手元の本に目を落としつつ答える。
「だって、まだ質問してもいいっておっしゃったのはジュリアス様のほうでしょ?」
「女王試験絡みのことならば私に質問するが良い」
執務机の向こう、身を乗り出すようにして本を私に差し出したままおまえは、小首をかしげて私を見たが、かまわず私は続けた。
「そのようなことは、ロザリアに聞けば良いであろう」
「いやですよ、『そーんなこともわからないの!?』って言われるのがオチですから」
「……私も言ってやろうか」
「そんな酷いこと、ジュリアス様がおっしゃるわけ、ないもの」
すとん、と執務机向こう、私の側仕えが出した小さな椅子に腰掛けながら、しれっとした顔でおまえは答える。
「『そのようなこともわからぬのか』」
「わ、ひどぉい!」私の、まるで本を音読したような言い様に吹き出しながら、おまえは続ける。「ええ、わからないんです。だから教えてください」
「……おまえたちの数学の教師はどうした」
「いえ、だからこれ、宿題なんですってば。宿題だから自分でやりなさいって」
「ならば自力でやればどうだ」
「それでできれば苦労しません」
あっさりといなされて、私はむっとした。おまえときたら、私がこの飛空都市で日長一日、暇にしているとでも思っているのか――そのように私が頭を抱えたくなるのも無理はない。何故ならおまえは、あの夕刻の女王陛下の像の前で出会った翌日以来、午前と午後の二度、必ず私の執務室にやってくるからだ。
午前は育成を願うだけで去る。だが午後は、私の遅めの昼食が終わったあたり、見計らったようにしてやってくる。そうして、場合によってはそのままそこにいて、私に質問をしたり、執務室の隅、側仕えの用意した椅子に座って書物を読んだりして過ごしている。
何故、このように通い詰めるのか尋ねたところ、おまえは、こともあろうにこの私に向かい、ニヤリと笑ってみせた。
「当たり前じゃないですか。女王になって、ジュリアス様からご褒美をいただく約束ですからね」
別に、私は約束したつもりなどないのだが――何故か約束させられたことになっている。それというのも、あの女王陛下の像の前で、私としたことが、この少女相手に言い争ってしまったことに起因している。
あの後。
「う、馬にも失礼、ですって!?」
おまえの頬に朱が差した。私も少々言い過ぎたと後で思ったのだが、よりによって私をニンジン扱いし(正確には「ニンジンを与える人」だったらしいが、私を愚弄していることに変わりはない)、私の好きな馬を挙げての呆けたたとえ話に対し、不愉快になったのだから仕方ない。
「そうではないか。そのような不遜な心がけで女王を目指すなど、言語道断も甚だしい」
口調こそ荒げはしなかったが、きつい言い様になってしまったと、後から……いや、後悔など私はしないぞ。私のほうが正しいのだからな。
ところが。
これがおまえの闘争心、とやらに火をつけてしまったらしい。
「……やっぱり私、絶対女王になってやる」唇を噛み締めておまえは呟いた後、顔を上げ、私に向かってこう言い放った。「女王になって、ジュリアス様……あなたに跪きなさいって、言ってやるんだから!」
「……ほぅ」鼻で嗤って、負けじと私も続けた。「わざわざ願わなくとも、この私が跪くのは唯一女王陛下のみ。だから」
ああそうだ……私が、売り言葉に買い言葉で言ってしまったのだ。
「願うのなら、他のことにするがよい」……と。
「わかりました! 約束ですよ! 絶対、守ってくださいね!」
「ああ、良いとも。もっとも……そのようなこと、果たされようはないがな」
やはり……今から思えば、少々大人げなかった、とも思う。軽々しく、女王試験の結果云々にまで言及してしまったことについても反省している。
「負けませんからね!」と捨て台詞を残しておまえは、さまざまな表情を私に見せつけ、その日の最後はとうとう膨れっ面のまま去っていってしまった。本当に目まぐるしいことだ。
だが、それ以来おまえは、こうして半ば嫌がらせに近いやり方で私につきまとっている訳だ。とはいえ、女王試験という大義名分のもと、女王候補に対しては可能な限り協力することになっているので、そうそう無下にもできず、それどころか、おまえの数学の宿題にまで付き合わされているということになる。
「ルヴァはどうだ。ゼフェルに付いていろいろ教えてやっているし」
「ええ、ルヴァ様のいらっしゃる図書館奥へ行きましたよ、でも」
行ったのか……いや、何を思っている、私は。
「途中で脱線しちゃうんですよね……ルヴァ様って。本のページを繰っているうちに、お声が聞こえなくなったなぁって思ったら……」
「本に没頭している、ということだな」
こっくりとおまえは頷く。全く……研究熱心なのは感心するが、ルヴァにも困ったものだ。
「……そうだ、ゼフェルはどうだ。あの者は、数学等は得意であったはずだが」
鋼の守護聖ということもあり手先が器用なのは当然のこととして、設計図などを描くにあたり、その手の知識は彼にとっても不可欠のはずだ。
「それはルヴァ様からも言われましたけど……」そこまで言っておまえは、肩をすくめた。「ロザリアの言い様をもっと強烈にしたような言われ方をされそうで」
「……は?」
訳がわからずにいる私に対し、執務机を挟んで椅子に座っていたおまえは、いきなり立ち上がると前に身を乗り出し、なんと、人差し指を私のほうに向けて突き出してみせると、カッと目を見開いて声を張り上げた。
「『バッキャロー! おまえ、こんなこともわかんねーのかっ!!!』」
ばさばさと、私の脇で側仕えが抱えていた文書類を落とした。だが側仕えにそうさせた張本人たるおまえは、再びすとん、と椅子に座ると、絶句した私に向かい、にこ、と笑って見せた。
「……って言われそうなので、つい、行きそびれちゃって」
女王試験開始より幾度繰り返したかわからぬが、それなりの盛大さをもって私はためいきをついた。
「……アンジェリーク」
「はい?」
「今……半ば、私に向かって申したのではないか?」
「あ……わかっちゃいました?」
全く悪びれることなくおまえは言う。もう呆れ果ててしまって、これ以上、文句を言う気にもなれない。
「私では、『このようなこともわからぬ』から、隣で聞いてこい」
隣、とは無論、『あの者』のことだ。
「えーっと……」
おまえを無視して私は、ようやく拾い上げたらしい書類を側仕えから受け取って目を通し始めた。
「クラヴィス様のところも伺ったんですけど……」
……そちらも行ったのか。まあ、良い。それで?と言いかけて私は、これで返事をするとまた手を止められてしまうと思い黙殺したが、構わずおまえは続けた。
「眠っていらし」
続きを聞いて、うかつにも私は反応してしまった。
「……ったく、あの者は!」