天使への遺言
翌日。
午前も午後も、私の執務机の向かい側に、金色の巻毛の少女が座ることはなかった。育成のほうは、毎日、依頼があって少しずつでも光の祝福を授け続けていたので、一日与えずにいたところでおまえの育成する『エリューシオン』の大勢に影響はない。ただ、午後については――窓を見れば、日はもう赤く染まりつつある。いつもならばおまえが私の執務室を出て寮へ戻るか、あるいは気分転換だと称して私を外へ引っ張り出し、中庭を歩いている時間だった。
「おや、やはり今日はお嬢ちゃん、来ていないんですね」
視察から戻ったオスカーが、私のもとへ報告に来るなり言った。
「……『やはり』?」
何とはなしに不愉快な気分にはなっていたうえ、いきなりその不愉快の原因を話題にされ、私は眉をひそめた。
一瞬、オスカーが失言だったと言いたげに顔をしかめたが、言い繕っても仕方ないと観念したのか、頷いて答えた。
「この時間はだいたいこちらに居て、あの椅子に座っていますからね」オスカーが指で示したのは、まさに側仕えが用意する、おまえのための椅子だった。「でも、こちらへ伺う前に、図書館のほうへ行くのを見かけたので、もしやと思ったんですよ」
「何か調べ物があったか、ようやく自分の力で調べようという気になったやもしれぬ」
それだけ言うと私は、オスカーに視察報告をするよう促した。
促しながら思っている。
……それならそれで、良いではないか。おまえの存在しなかった――以前の、いや、本来の状況に戻っただけだ、と。
なのに、何故か私は図書館に来ていた。
別におまえのことが気になったわけではない――ということでもなさそうだ。正直に言えば、昨日のあれは後味の悪いことであった。いや、確かにおまえは私から言わせれば「不作法な」少女であることは否めない。初日からこの私に喧嘩を売ってきたし、日頃にしても到底慎ましやかとは言い難く、平気で執務中の私の前で他愛もない話をたらたらと続けるし、何と言っても――ノックはしないし。
だからと言って、それがおまえの問いに答えたとおり、「苦手な」ものであるかどうかは、私にもわからなかった。苦手と言えばそうであるし、苦手ではないと言えばそうとも思える。このような割り切れないものは、いまだかつて私の中に存在したことがなかった。だから少々苛立たしく思い、それを散らすべく図書館の資料群を見やるうちに、ふと、以前から調べたい事柄があったことを思い出した。これ幸いと私は調べ物に着手することにし、これまた幸いなことに、調べ物に没頭することができた。
ところが、没頭故に図書館奥まで資料を繰りにきたとき、そのまた奥のほうから、騒々しいとまではいかないけれど、この場所にしてはいささか賑やか過ぎる声が聞こえてきた。そこで、誰だろうと近づいたところで、その声の全てが私の知る者のものであることに気づいた――ランディ、ゼフェル、マルセル、そして――おまえだ。何か楽しげに話し合っている。
先の三人だけならば、静かにするよう注意するところだが、おまえの声が私にそれを止めさせた。やはり昨日のことが、まるで、小さいながらも指先に刺さったまま抜くことができずにいるバラの刺のように、決して激しくはないものの妙に存在感のある痛みを伴って私を苛み、あの中へ踏み込むことを躊躇させたのだろう。
ただ、歩だけは進めた。極めて静かに、衣擦れの音すら気を遣い――何故、私がこうまでして彼らに――おまえに――気を遣わなければならぬのか、自分自身でもわからぬまま。
図書館自体、静謐を保つべき所であり、我らや王立研究院関連の者たちだけの場であるのでもともと利用者も少ない。だからそれほど近くまで寄らずとも、おまえたちの話す内容はよく聞こえ、それに私が聞き耳を立てていたとしても、見咎める者もいない。
話によると、どうやら、おまえが図書館へ勉強をするために来たことは確からしい。マルセルがときどき、邪魔をしてしまったとおまえに謝っている言葉が混じる。だが話している内容はおおよそ勉学とは遠いもののようだ。
「ルヴァ様のところなんて、ゼフェルはいくらでも気安く行けるじゃないか」
「けどよ、ランディ。あいつ、ルーペは首からさげてるんだぜ、そうそうゲットできるもんじゃねーぜ」
話の内容は、どうやら『肝試し』なる遊びについてのことだった。彼ら以外の守護聖たちの持っている物を『無断で』拝借できたら勝ち、らしい。やはり注意すべきかと思ったが、あくまでも話題のうえでのことらしく(当然といえば当然だが)、各々が明るく笑い飛ばしている。たとえばリュミエールのハーブを持ち出したら気の毒だからやめて、とマルセルが言い、悲しそうな表情をされたらたまらないとランディが同調する。一方、オスカーの剣についてはランディが、女性には誰でも声をかける軽い質ながら、剣の稽古をつけてもらっているときは本当に真剣だから、そのようなことは恐ろしくて考えられないと言っている。だがそれをゼフェルが、アンジェリーク……おまえとロザリアの二人の女王候補で甘い言葉でもかけてやり、それにオスカーが気をとられている間に……などと吐かしている。困ったものだ。ここはランディの申すとおり、こと剣についてオスカーが抜かることはない、と思った――と、いったい何を私までが話に参加しているのだ?
「クラヴィス様の水晶球……」小さくマルセルが呟いた。「オスカー様の剣に匹敵……するよね」
「する」とゼフェル。
「するとも!」とランディ
「それはしますね」と……おまえ。何を皆そろって小声になっているのやら。まあしかし、それはわからなくもない。もしも本当に失うようなことになったところで、クラヴィスがその在処を看破することは間違いない……ああ、また話に参加してしまった。
「それより、オリヴィエのすっぴんを見るってぇのはどうだ?」
「それ、絶対見たーい!」
いち早く叫んだのは……おまえだ。ランディやマルセルも一斉に賛同した。それは私も少し見てみたい気が――いや……そろそろ本格的にうるさくなってきたので、戒めねばと動き始めたところではたと気づいた。
『肝試し』とやらで、いったい私の何が奪われるのだろう?
そう思った瞬間、おまえの声がした。
「じゃあ、ジュリアス様は?」
ぎくりとした。まるでおまえに見つかってしまったような気がした。
「……え、ジュリアス様……?」と、戸惑うような声でマルセル。
「ジュリアス様か……思いもつかないなぁ」とは、困惑を隠しきれないようなランディの言い様だ。
「だいたい、あいつの執務室自体、行く気なんてしねぇよ」そう吐き捨てるように言ったのはゼフェル。「もっとも、行かなきゃ仕方ねえときもあるけどよ」
「呼び出されて叱られるときだよねー」マルセルが笑う。
「仕方ないじゃないか、おまえのほうが悪いんだから」とランディ。「でも、確かにあまり伺ったことってないなぁ……ゼフェルと違って、執務のことで呼ばれてってときぐらいしか」
「何が『ゼフェルと違って』だよ!」
つまらぬことで揉め始めるのは、ランディとゼフェルの悪い癖だ。だが私は注意する気を削がれ、それどころかむしろ苦笑していた。