氷花の指輪
店から逃げ出してしまった。
本当は何度もニコラスに事情を話そうとは思ったのだが、
ひどい記憶がよみがえり、うまく言葉にすることができなかった。
あそこにはもう、絶対に、戻りたくない。
「ねえ。シャイロックさん。あなたは、故郷に帰りたいと思う?」
下水道で露店を開いている1匹のゴブリンに話しかけてみる。
「儂以外のゴブリンはみーんな、どっかにいなくなってしもうた。
もしも故郷の土地を踏めたとしても、
だーれもいないんじゃ、それはもう違うところだー。」
「そう…。」
「夢でもいいから、また皆とワイワイやりたいもんじゃなあ。」
ニコラスの故郷には、もう誰も生きている者はいない。
ただ、滅亡の日の思念や霊魂が残っている。彼もそれを感じられるはずだ。
でもそれは、帰りたい故郷なのだろうか。
ここでレベルを上げ続けるのは効率が悪いことは分かっていた。
漂流洞窟に行けば、ニコラスも故郷に帰れることを喜ぶかもしれないとも考えた。
二人の出会いの場所を、もう一度二人で歩くのもいい。
ただ身体が拒絶する。あの場所を思い浮かべるだけで寒気がして、足がすくんだ。
あの暗い地下牢も、牢から出てからの日々も…。
もう、あのころのように耐えることはできないだろう。
私は……弱くなった。
「私にも帰りたい故郷があればよかったなぁ。」
無理やり笑って、ゴブリンとの会話を続けようとしたときだった。
「それじゃあ、俺たちと一緒に帰ろうぜ。」
――― 敵。黒妖精。二人。
頭の中のスイッチが切り替わり、瞬時に戦闘モードに入る。
笑顔の仮面はいらない。相手を睨みつける。
自分の中に眠る霊魂の恨みの感情を霊力に変える。
霊力残量は…もう少し余裕が欲しい。
ニコラスを呼ぶか?
いや、彼には追手の存在を教えない方がいい。
いろいろ説明しなくてはいけなくなる。
そばに居れば実体化を解除して眠らせ、その力を借りられるのだが……。
……ニコラスに気づかれる前に終わらせればいいだけのことだ。
「…その目、見たことあるぜ。あんたは俺のこと覚えてないと思うけどさ。
あー。再会が嬉しくて、手が滑りそうだー!
そこのゴブリン、殺っちゃいそうだなー!」
派手な装飾の施されたワンドを見せつけながらわざとらしく誘う。
シャイロックはがたがたと震えている。
「……場所を変えましょう。」
シャイロックから、いや街から離れなくては。
ダンジョンの方へ。
ワンドを持っていることと、私に会ったことがあるらしいことを考えると、
こいつらは、元老院の刺客である可能性が一番高い。
今まで何人かの追手を相手してきたが、全て夜間で、昼間に接触してきたことはない。
白昼堂々、住民の前にまで姿を現すなんて…油断した…。
「私に何か用?」
街はずれのダンジョンの入り口から少し外れたところ。
ここなら他の冒険者にも気づかれないだろう。
どうせ今から始まるのは、殺し合いだ。
用件など聞いても無意味だが、霊力を集めるための時間を稼ぐ。
「あんたとあんたの大事な宝を『故郷』に持って帰るのが俺たちの任務だ。
もちろん、どちらも生きてさえいればいい、とさ。
あの参謀があんたを逃がしたと聞いた時には驚いたが、
こうやって昇格のビッグチャンスを得られてラッキーだぜ。」
やはり元老院か…。ワンド、いや短剣を握る。集中する。
追手の男のうち、小さいほうの男が聞いた。
「先輩。俺、こいつのこと知らないっすけど。
大罪人っすか?長老直々の命令なんて初めてで。こんなに美人なのに…。」
先輩と呼ばれた大きな男が、にやにやと答えた。
「ああ、手配書には事情書いてないしな。
俺も詳しく知らないが、俺が昔、牢の番人してた頃にな
こいつとこいつが持つ宝の霊魂ってのがものすごくレアものだってんで
いろいろ調べられてたんだ。
鎖で縛られてさ、大公どもにいろいろ無茶な実験されて…。
実験?いや、ありゃ拷問か!かなりえげつなかったもんなぁ。
そういや、こいつ、どんなに痛めつけられても
まったく声ださねぇって話だったな。」
男が近づく。落ち着け。
大丈夫だ。恐れるな。まだ距離がある。
「折角だから、とっ捕まえた後にそのレアものってのじっくり拝ませてもらおう。
……それと、その身体を楽しませてもらおうか。」
集中しろ。戯言は聞くな。
思い出すな。足の震えを止めろ。
「あの堅物の参謀をも誘惑したって話だしな。
あんた最近まで、奴の愛玩人形だったって話じゃん…よ!」
――― 違う!
聞くに耐えない言葉に、一瞬意識が飛んだ。
そこへ、男が振り下ろすワンドに合わせて、暗闇の爪が空を切り裂く。
大丈夫、この距離とスピードなら躱しつつ、こちらからのカウンターを打ち込める。
目を合わせられる!
地を蹴ろうとしたその時、地面が揺らぎ、
足元から無数の亡者の手が現れ、足を一瞬硬直させる。
そうか、もう一人も術者だ!
迫る暗闇の爪、避けられない!
――― !
次に来たのは覚悟していた斬撃の痛みはなく、抱きしめられる強い強い力。
「ニコラス!?」
「マスター…。ご無事…ですか…?ぐっ……。」
暗闇の爪の攻撃をすべて自分の背中で受けたニコラスは、
たまらず、膝をつく。
「ちっ。邪魔か。
って、おい!あいつ死霊じゃないか?」
赤い血が噴き出るはずの傷口から、
瘴気のような霊気が立ち上るのを見て、男たちは後ずさった。
「おいおい。降霊召喚型がいるなんて聞いてないぞ。
出直すか。おい!」
予想外の事態に、撤退を考える大男。
だが、もう一人の男は何かに心を、目を奪われたかのように、動かなかった。
「…先輩。すごいです。あの二人の霊魂…。
確かにあれは、奇跡…です…。」
死霊術師は、集中して相手を見ることでその霊魂を見ることができる。
波動や色、形などを見て、相手の状態や力量などを計ったり、
死霊の霊魂を使役する際の指標にする。
「っなんだと!?
……なるほど!あれだ!あの降霊召喚型があいつの宝だ!
まさか、外に出しているとは思わなかった、でかした!
傷が治る前に奪うぞ!」