氷花の指輪
11.渇望の小瓶
ベヒーモス・逆天の滝エリアで修練を積み、私たちは強くなり、
やっとあの雪山の結界を超えられるレベルになった。
レベル46。適正エリアは、北の憩いの場・諦念の氷壁。
ここ、諦念の氷壁は、大転移という大きな天変地異の後、
生き物たちの霊魂を封印し、安置する場所となっている。
「ここは、霊魂がたくさんある。
悲しい霊魂がたくさんあるのは残念なことだけど、
霊力を集めるのには助かるね。」
マスターが深呼吸をするように、深く息を吸った。
凛と冷たく張りつめた北の大地の空気が身体に沁みるように
取り込まれた霊魂の苦痛や嘆きが、また彼女の精神を侵していくのだろう。
この街についてから、数日が経過したが、
凍てつくような寒さはあれど、肝心の雪は降っていない。
厚い雲に覆われた空が、涙を流すのを拒んでいるかのようだった。
私たちの関係も、バラクルの言うところの進展は特にない。
あの決闘場での一件以来、何かふっきれたのか
顔を合わせただけでギクシャクするようなことはなくなったのはよかったが、
私の方は、今まで見て見ぬふりをしていた
マスターの女性らしいしぐさや身体つきなどに気がいってしまって、
心休まらない日々を過ごしていた。
長い髪を耳にかけるしぐさ。可愛らしく微笑む唇。軍服の首元…。
「マスター?どうかしましたか?」
彼女は、焦点の合わない目でぼーっと空を見上げている。
最近こういう姿をよく見るようになった。
「マスター……?」
「あっ。ん?どうしたのニコラス?」
「いえ…。食材になりそうなものも採れましたし、
そろそろ宿に戻りましょうか。お身体を冷やすといけません。」
「うん!そうだね!」
大漁大漁!と笑いながら進むマスターの背中。
何故だろう、少し小さく、遠く見えた。
(……。)
バラクルは何か知っているのだろうか。
いつも賑やかな彼が、このエリアに来てから妙に静かだ…。
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「セリア!ただいま!今日も大漁だよ!」
「まあ、アリスさん、みなさんも、お帰りなさい。
いつもありがとうございます。」
いろいろ訳ありな私たちに快く宿を提供してくれたのは
セリアという名の若い女性だった。
せめて何かお手伝いできないかと始めたのが、この食材調達。
宿泊客は私たちしかいないので、
自由気ままに、その日にとれた食材で料理を作ってくれている。
「セリア。このベリーは何にするの?」
「これは、保存用にジャムにしようと思います。
明日にでも作ろうかと思いますが、アリスさんも一緒に作りますか?」
目を輝かせたマスターの前に、慌てたバラクルが割り込む。
(待て!セリア!
姫さんを厨房に立たせてはいかん!
姫さんが以前、自信満々に作ったスープを飲んだ男が言ったセリフが
「私の作る毒入りスープより、毒だな、これは。」だ!)
「ちょっと!バラクル!」
「あらあら、ふふふ。
では、一緒に練習しましょうか。
料理はきっちり材料を計るのも大事ですが、
もっと大事なのは経験と勘と愛!なんですよ♪」
セリアは不思議な女性で、バラクルの霊魂を視認し、話までできる。
普通の人間ではないのかと聞いたら、
この世に普通の人間なんていましたっけ?と答えられてしまった…。
バラクルは、古代妖精じゃないかと言っていたが、全くそうは見えない。
謎が多い……。
「とりあえず、夕食の準備をしますから、
少し休憩していらしてくださいね。」
そう言われ、各自の部屋にいったん戻ることにした。
マスターと私は別室をいただいているのに、
バラクルはマスターと同じ部屋に戻るのが少し腑に落ちないが、
結局夜中はマスターの中で眠るので同じかと納得することにしている。
――― 手料理を食べさせた男がいるのか。
先ほどのバラクルのちょっとした発言が心をざわつかせた。
毒入りスープを作る男とは何とも変な知り合いだ。
私は死霊だから毒でも食べられますよ。なんて冗談を、
ひとり、心の中で転がした。
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部屋に戻り、扉を閉めたとたん。
身体が操り人形の糸が切れたように床に崩れた。
強烈な全身の痛みと悪寒。目が回る……。自分の身体をかき抱く。
(おいっ!姫さん!)
「騒がないで……。ニコラスに気づかれちゃう……。」
(だ、だが……。)
「……大丈夫。すぐに治まる……。」
霊魂を受け入れて力にする術『呪い』による精神的な侵食もそうだが、
肉体的な損傷がここにきてきつい……。
長い間受けてきた暴力と、毒や薬品による影響で
身体の中がもう、どうしようもなくぼろぼろなのだ。
雪山の寒さが、身体に堪える。
普段は霊力を使って維持しているものの、
少し気を抜くと、立っているのもつらい。
発作のように起こる激しい痛みも
徐々に、間隔が短くなり、症状も重くなってきた。
その影響か、昼間、意識を持って行かれることも増えてきたと思う。
もう限界、なのか……?
「……もう少しなのよ。……雪が降りさえすれば……。
そこまで、この身体がもてば……。」
(姫さん……。)
悲しげなオーラを纏った濃紺の霊魂が、ふらふらと目の前を漂う。
目も少し霞んできたかな……。
(……なぁ、姫さん。もしやと思っていたんだが、
王子と一緒に雪が降るのを見たら……死ぬつもりか?)
もうとっくに、私の気持ち知っているくせに……。
「……それ以外に、道があれば、よかったんだけど……。
まあ、死ぬつもりがなくても、死ぬでしょうね……。
ニコラスとの約束も果たし、先生との約束も守るために、
私ができるのは…しなきゃいけないのはここまでだから……。」
目の前に、あの月夜に踊るキノコの胞子が見えた気がした。
彼の驚いたように見開かれた、真っ赤なルビーのような瞳と
熱を失いかけた星のような霊魂が見える。
――― 一緒に、本物の雪が降るところを見に行く?
彼との約束が、契約が、深い後悔を伴って思い出される。