氷花の指輪
どのくらいそうしていただろうか。
追手の気配はなく、ただ、静かに降り注ぐ月光だけが二人を優しく見守っていた。
ゆっくりと身体を離したマスターがこちらに向き直る。
急速に消えていくぬくもりが寂しい…。
「ニコラス…。左手を出して。」
マスターがじっとこちらを見て言う。
「私たちの契約は…約束は果たされたわ。少し違う形だけれど…。
二人でキラキラと月夜に舞う雪を見た。
……だから!
契約の指輪。ううん。呪いの指輪を返してもらうね。」
「……私が嫌だと言ったら、どうしますか?」
私は、左手をしっかりと右手で隠し抵抗する。
マスターは困ったような顔をする。
「呪いの内容は知ってしまったのでしょう?
あなたは自由になれるのよ。嫌なはずないでしょう。
もう、私の召喚霊の振りをしなくていい。
私を愛する振りをしなくていいのよ……。
それに指輪を外すまでは、私はあなたに命令することもできるのよ。」
「私はひとりで寂しい自由よりも、あなたと一緒の不自由を選びたい。
もし、どうしてもというなら、命令してみたらどうですか?
左手を出せと。」
「……わかった。ニコラス。左手を。」
私の左手は右手に包まれたまま、動かない。
「えっ…。なんで……?左手を前に出しなさい、ニコラス!」
それでも私の左手は動かない。
混乱して顔を真っ赤にして泣きそうになっているマスター。
「……ここで、あなたが本心から指輪をはずしたいと思っていないから
命令に効力がないんですよ、とか言ったら
ちょっとかっこいいんでしょうけど……。」
そういって、私は左手の指輪をそっと自分自身で外してみせた。
「!?
やっ!嫌っ!ニコラス、なんで!?なんでっ!?
あなたには絶対に外せないはずよ!」
マスターは取り乱し、力無く、どんどんと私の胸を叩く。
外した指輪を大事に右手で包み、彼女を抱き寄せて耳元でゆっくりと話す。
「落ち着いてください。マスター。
落ち着いて聞いてください。
実は、私は先ほど、あの人形に呪いの話を聞くまで
この指輪が外せないはずのものだということを知りませんでした。
……私は最近、この指輪を毎日外して大事に磨いていたんです。」
「……外して、み、磨いて……?なんで……?」
とても恥ずかしい理由だ。
自分でも顔が火照るのが分かった。
「あの……。こちらを、顔を見ないでくださいね。
マスターとの初めてのキスとあの決闘場のあなたのお姿が忘れられなくて……。
切なさが募るたび、この指輪に……キスをしていました。
これが一番あなたに近く、あなたを感じられるものだったので。
それから、この指輪をはずして、手入れをしようと思いまして……。
本当に普通に外して、普通に磨いて、普通にまたつけてました。」
「指輪に…キス……?」
「マスター。今呆れてますよね……。
……とにかく、私に指輪が外せたのですから、
呪いは解けてしまっているのではないでしょうか?
だから、命令もできないんじゃないですか?」
「で、でも、指輪の呪いでは、何らかの理由で指輪が外れたら、
あなたは、蜘蛛王国の洞窟に戻ることになっていたのよ!」
そこまでは知らなかった。改めて聞くとひどい呪いだ。
発動しなくて本当に良かった。
「それでは、あなたとキスをしたときに呪いが解けてしまったのでしょう。
それか、もしかしたら、私は最初から、
あなたに指輪をいただいたその時から、
呪いになんてかかってなかったんですよ。」
「そ、そんな。そんな馬鹿な!私が呪ったのよ!」
彼女らしい、かっこいい理屈だった。
「呪いなんてなくたって、
私はあなたの召喚霊になりました。あなたのものになりました。
あの時……一目惚れだったんです。
きっと呪われる前から、あなたを愛してしまっていたのです。」
私らしくもない、甘い理由だった。
抱きしめている腕に力を込める。
「私はあなたを愛しています。」
「……呪いじゃなくて……ニコラスは本当に私を……?」
「はい。愛しています。」
「ほん……と……うに?」
腕の力を緩め、彼女の目を見る。
その漆黒の瞳から、大粒の涙が次から次へと流れ落ちていく。
「あなたの呪いの力が効かないくらい、愛しています。
あなたの得意技なんですよね。
それより強いんですから、相当なものでしょう?」
彼女が微笑むと、一番大きな輝きが頬を伝った。
その時、私の右手にあった指輪が、熱を発した。
右手を開くと、契約の指輪が幽かな光を放ちながら形を変えていた。
質素な金属の輪から、月光を反射する白金のリングへ。
そして、それに刻まれた八重咲の小さな花の模様。
花の中央には紫紺の宝石。
アメジスト。真実の愛のお守り。
「私たちみたい……だね。」
私たちの寄り添う霊魂を表現したようなその模様。
「……これは、あなたのお姉さまの指輪だったのですか?
今、声が聞こえた気がしました……。贈り物だと……。」
「うん。私のお姉ちゃんの形見の指輪。
一人ぼっちの私を育ててくれて、
私に愛する人と生きることを教えてくれた……。」
私の右手に乗る小さな指輪に、彼女は小さな両手を重ねて、
自分が全て消し去ったと思っていた姉の残滓を感じていた。
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「この指輪は、あなたに返そうと思います。
その代り、私に呪いを教えてくれませんか?
あなたは私を呪おうとしたんですから、
お返しに、次は私が呪ってあなたと契約を結びましょう。」
彼女は面白そうに噴出した。
「あはは。ニコラスにできるかな?
私に一体どんな呪いをかけたいの?」
私は座り直し、まっすぐ彼女の瞳を見ていう。
この吸い込まれそうな瞳がすでに呪いだ。もう抜け出せない呪いだった。
「この指輪とあなたの本当の名前を媒介にして、
あなたと婚姻の契約を結び、永遠に愛し合う呪いをかけたいと思います。
……私と結婚してください。これは結婚指輪としてあなたへ。」
彼女は、驚いて息をのむ。
胸の前でブランケットをつかんでいる手が震えていた。
「もちろんわかっています。私が死霊であることも、
あなたがもうじき死んでしまうことも。
でもそれなら、私たちは魂で結ばれましょう。そういう呪いにしましょう。」
「ニコラス……。」
「お返事を……いただけますか?」
静かに静かに、ゆっくりゆっくり、雪が降ってきた。
月光をまとい、キラキラと。
「はい……。はいっ!
わ、わたしで、こんな私ですがっ!
ニコラスのそばに……、そばにいさせてください。」
「そんなあなたがいいんです。
愛しています。アリーシャ。」
指輪は、彼女の折れそうなほど細い左手の薬指に吸い込まれ、
降り出した雪の輝きを一身に集めたように煌めいた。
指を絡めあい、私たちは2回目のキスをした。
彼女の霊魂が、凍てついた花が静かに溶けていく情景が浮かぶ。
そして、新しい形へ。
太陽のように燃える炎のリングと何もかも溶かし癒す水のリングが
重なり合い、決して外れぬよう、お互いをお互いの中へ。
それは、無限の記号となる。
永遠の証となる。