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氷花の指輪

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「マスター、ちょっとはいろいろ自覚してくださいよ。
 聞いてますー?マスター?」

……寝てる。
強めに頭をタオルで拭いてやっているのに、彼女は座ったまま寝ていた。
そういえば、彼女の寝顔を見るのは初めてだ。
夜はいつも、降霊召喚が解除され、彼女の中で眠っていて外界のことは分からない。
ソファーに横たえ、毛布を掛けてやりながら思う。
夜更かししているらしいが、彼女は毎晩、どうやって過ごしているのだろうかと。

――― ああいう男と夜を過ごしているかもしれない。

胸の奥が変にざわざわとする。怒り?いや焦燥?
自分が彼女の中に眠っている状態で
知らないうちに他の誰かと一緒にいるなんて気持ち悪いと思った。
…それだけだ。

思ったより、顔色も呼吸もすぐに落ち着いて、すやすやと眠っている彼女。
やっぱり寝不足だったんじゃないか…。
小さな明かりの下でも、白く輝くような彼女の首筋に手を伸ばす。
さっきの男が、あの下品な手で触れたであろう場所だけが、
汚らわしく感じて、同じ場所を拭うようになでる。
何度か無意識に手を動かしていると、彼女がくすぐったそうに首をすくめた。

我に返り、自分がしていたことに気づき、驚く。
シュシアの言った、嫉妬という言葉が今更思い出された。
気恥ずかしくて、彼女のほうを見ていられなくて、見上げると、
そこはびっしりと本の詰まった本棚が並んでいた。

「まだしばらく起きそうにないから、暇つぶしに本でも読むか。
 死霊術に関する本か…あ、そうだ。中和……。」

先ほど倒れた時、彼女は『中和できない?』と言ったのだ。
アルコールの中和のことだろうか。
体内に入ったアルコールを、意志を持って中和しようとすることはあまりないだろう。
まあ、不思議な彼女なら自分の意志で内臓とか動かせそうだが……。
あとは……毒を警戒していたとか?
そういえば食事もほとんど摂らないし……。

とりとめのない疑問を感じながら、何か関連する書籍がないか探す。
背の高い本棚にはびっしりと本が詰め込まれ、
さらにその上にも天井に届くまで積まれた本。
これは、探すのは骨が折れそうだ。
『死霊術師の生態』など分かりやすいタイトルの本があればいいのだが……。
在るはずないか。

気になるタイトルの本を見つけては、
古い脚立を使って手を伸ばす。
古代語を使って書かれた本などがあると、少し気持ちがときめいた。
自分の生きた時代にタイムスリップしたような感覚。

「ニコラス!」

いつの間に目が覚めたのか、彼女が泣き叫ぶような声で呼ぶ。
そして、すごい顔をしてこちらに来て、脚立をつかむ。
不安定な脚立が揺れて…。倒れる!
脚立が倒れた衝撃で、本棚の上の本が雪崩のように落ちてくる。
一瞬早く脚立から飛び降りた私は、彼女を抱きしめ、自分の身体を盾にしたものの、
雪崩が収まったあたりで、体制を整えようとして
逆に、本につまづき、後ろによろめいた。

抱き合ったまま一緒に本の山に倒れると、
後を追うように埃が舞い上がり、そして舞い降りた。
そして、最後に1冊、大きな本が彼女の頭に命中しそうになったところを
なんとか寸でのところでキャッチする。

「ゴホゴホ…。っついててっ。危ないじゃないですか、マスター!」

彼女は…。
私の胸に顔をうずめたまま、泣きじゃくっていた。

「ニコラスがっ!ニコラスが私の中にいなくてっ、いなくて!
 いつも一緒なのに、いなくてっ!ぐすっ…。
 よかった。ニコラスいたぁ。いたよぉ…。うっ…。」

意表を突かれた。
いつも明るく気丈に振舞っていた彼女が、こんなに子供みたいに泣くなんて……。
怒る気力もなくなって、ただ、彼女の頭をゆっくり撫でてやった。

「いますよ…。ここに。あなたのそばに。」

何をそんなに不安になっているんだろう。
いくら珍しい高位霊とはいえ、
死霊術師にとってはただの替えの利く道具でしかないだろううに…。

自分が思ったことに、自分ではっとさせられた。
…そうだ。私は彼女が生きていくための、道具……。

しばらくそのまま、頭を撫でていると、彼女の嗚咽も収まってきた。
出会ったころより子供になってしまったような彼女は小さく震えていた。
水をかけたせい…ではないようだ。

---

店主のシュシアが、物音に気付いてやってきた。

「なんかすごい音したけど、大丈夫?って…。
 あらあら。ごめんなさい。
 ごゆっくりなさっていただいて構いませんが、
 あまりうるさくしないでくださいましね。ほほほ。」

何かものすごく誤解させるような状況だったようだ。

「あ、あの、店主。誤解です。
 そういったその、何というか、そういう感じのことは一切ないので…。」

「あら、わたくしは何も言っていませんよ?」

その時、私の上に乗っていたマスターが
私が先ほどキャッチした本を見て跳ね起きた。痛い…。

「シュシア!この本っ!この本譲ってほしい!ニコラスにあげたい!」

そういうと、その本を手にシュシアのほうにかけていった。
シュシアは本を手に取り、少し驚いてから頷いた。

「…いいわよ。ここにある本は皆、必要とする誰かを待っているの…。 
 それにしても、あなたひどい顔よ。
 プレゼントを渡す前に、きれいにしていらっしゃい。」

彼女の顔は、涙と埃で大変なことになっていたようだ。
シュシアは、洗面所に向かうマスターの背を見送りながら話した。

「この本には、タイトルはありません。どなたかの日記なのです。
 滅亡した蜘蛛王国とその国民の栄枯盛衰が記されたもの…。
 確かに、今日、あなたの手に渡るためにここにあったのでしょうね…。
 これ自体が魔力を持つ魔道書なので、
 あなたの力があれば簡単に使いこなすことができるでしょう。」

そして、ゆっくりとこちらを向いて、
鋭くも優しい瞳で、強く、強く祈るように言った。

「あの子を、…どうか…守ってあげてくださいね。」

この女性は何者なのか?という疑問は浮かんだがすぐに消えた。
彼女を守る。それに異存は何もなかったから。

「はい。必ず、お守りいたします。」

あの震えを止められるのならば、私は一時、道具にだってなろう。

---

一晩、書庫を借りて、改めて寝ることにした。
彼女は先ほどの本をしっかり抱えて眠っているはずだ。
私は、彼女の中に戻り、また甘い夢を見る。

翌朝、驚くことにマスターは一杯目の酒をあおった後のことを
全く覚えていなかった。

「うん…。なんでここにいるのかもわからないし…。
 なんかすごく頭がいたい…。」

「はぁ……。」

なんか一気に疲れが戻ってきた。
昨夜の一件が、書庫の隅に放置された小さな物語だったかのように思えた。

「…でも、この本のことは覚えている。
 ニコラスに渡さなきゃと思ったの。これはあなたの剣よ。」

差し出されたのは、私と私が滅ぼした国について書かれた誰かの日記。
私の存在、霊力、そして彼女との絆を深める魔道書。

「ありがとうございます。大事にいたします。」

見た目以上にずっしりとしたその重みが、守れなかったものの重みと
この剣でこれから守るべきものの重みを伝えた。
作品名:氷花の指輪 作家名:sarasa