Restart
「くっそ、一緒に遅刻して怒られてくんねーのかよ!」
「ふざけんな、走れよノーパン!」
「まだ穿いてるっつーの!」
開け放った窓から会話が丸聞こえだ。プール清掃だろうか。体操着でやるのが恒例だが、途中で水のかけ合いになって、終わる頃には男子は全身ずぶ濡れになる。小学校のプール清掃では、俺と凛は示し合わせたわけでもないのに水着で参加していた。
プール開きが待ち遠しくて、面倒臭いと言っても誰より張り切って掃除した。ホースを取り合った凛は遠い海の向こうで今頃泳いでいるだろう。
気持ちが小学生の頃に半分戻って走り出したいような気がした。でも立つことすらせず、畳に伸びて何にもない天井を見上げた。畳の上からでは空も見えない。
襖を引く音がして目を向けると、母親が宿題をサボったときみたいに呆れ顔で見下ろしていた。
「休憩中」
先回りしておく。
「そう。ならちょっと車出して頂戴」
「どこまで?」
「秋沢先生のとこまでおつかい」
「秋沢って……スイミングクラブのか」
「もう連絡してあるからね、玄関の袋に野菜入ってるから。ちゃんといって来てね」
言い切るか否かのタイミングでピシャリと襖を閉めて言い逃げした。何か企んでる。大方、また泳ぐ気にさせようって腹だ。でも今更プールを見たくらいでやり直すつもりはない。そんなので泳ぐなら怪我が治った卒業頃に高校のプールに飛び込んでる。
変な気遣いも期待も、もう辞めて欲しい。俺の夢はもう終わったんだ。
「まったく……………」
気乗りしない。起き上がりもしないでいると、台所で金物がガチャガチャ音を立て始めた。自分は手が塞がってるから必ずお前が行くんだと念押しされている。
仕方なく思い腰を上げて軽トラのキーをとった。
佐野スイミングクラブは車で五分の場所にある。三十分歩いて通った小学校より近い。
昔は歩いたり走ったりして通ったものだが、今日は車だ。車を乗り回すようになると子供の頃平気で歩いた距離も億劫になると母親が言っていた。最近少しそれが理解できるようになった。身体鈍っているようで自分にがっかりする。
訪れるのは三年ぶりだろうか。もっとかもしれない。凛に付き合って去年オープンした岩鳶町の新しいスイミングクラブを訪れた記憶と重なって、建物が思い出よりも古ぼけて見えた。玄関も自動ドアなどではなく、重いガラス戸を押し開けなければならない。
ガラス越しの内側は昔のままだった。正面の受付に座っている職員の顔ぶれが違って、スタッフ用のポロシャツのデザインも変わっていたけど、ロビーのベンチも自販機もそのままだ。だけどドアノブの位置はずいぶん下になっていた。自分の目線が高くなった。何もかもが小学校の頃より小さく見えて、なんだか場違いな空間に迷いこむようで扉の前で立ち止まってしまった。
玄関の目の前で立ち尽くしていると、受付の女性が気づいて事務所の奥へ声をかけた。すぐに受け付け奥の部屋から白髪の館長が出てきて向こう側から扉を開けてくれた。
「いらっしゃい、宗介くん」
怒ると怖い人だけど、いつの間にか小さくなって、白髪に隠れた頭頂部のハゲが見える。
「……お久しぶりです、秋沢先生」
「よく来たね。ほら、入って。事務所でお茶でも飲んでくかい?それともプールの方へ行く?」
「いや、俺はすぐ帰りますから」
野菜の入ったビニール袋を渡そうとしても秋沢先生は手を出さなかった。
「田舎じじいが客を黙って帰すわけないだろ。ほら、お茶入れるから入りなさいよ。柴谷くーん、宗介くん来たよ!」
廊下の奥へと叫ぶと、水着の上にハーフパンツとジャージを羽織ったコーチがスリッパをパタパタいわせながらやってきた。小学校の頃に教わった人で、こちらは腹に肉が乗っている。
「宗介、今実家いるんだって?」
「はい、まあ」
「凛は?」
「オーストラリアに戻りました。中学ンときの留学中に知り合ったコーチのついてるチームでやってます」
「アイツ薄情だな。岩鳶の方には顔出したらしいのにこっちには顔も出しゃしねえ」
「柴谷くん、プールの用具の準備終ったの?」
「途中ですよ。館長が呼んだんでしょ」
「じゃあやっぱりプール見ていきなよ、宗介くん。内装ちょっとリフォームしたんだよ」
「壁塗り直しただけだぜ。去年にな」
「……いや、あの」
体を軽く引くと、背中の真ん中をしわしわの手がポンと叩いた。
「大体の話はお母さんから聞いてるよ。それでも僕らは久しぶりに会った教え子ともっとお喋りしたいんだ。ちょっとぐらい寄っていきなさいな」
優しい秋沢先生の反対側から、逃がさんとばかりに柴谷コーチが腕をつかむ。
「…………じゃあ、少しだけ」
事務所に入った記憶は一度だけ、凛と大喧嘩して二人まとめて説教された時だけだ。そこで応接用の折りたたみ椅子を勧められた。
「今は怪我の方は大丈夫なの?」
遠慮なしに訊かれても、誤魔化す気にはならなかった。昔の秋沢先生はなんでもお見通しで、調子が悪いのに無理してプールにいると早上がりするよう言われたものだ。
「動かしても痛みはありません。医者からもお墨付き貰ってます」
「そうか。じゃあ泳ぎたくはならないの?」
「……今から凛に追いつこうとしたら、またすぐに怪我が再発するでしょう。遊びで泳げればいいなんて性質でもありません」
「だよね。宗介くんは昔っから頭の固いところがあったもんなあ」
そういう問題か。内心腹を立てながら苦笑いで受け流すと、秋沢先生がおもむろに立ち上がって故障していた肩に触れた。
「動かすよ」
形を確かめるように撫でさすってからゆっくり持ち上げた。
「痛めてる時はこれぐらいでも痛かったの?」
「はい」
「楽な姿勢で動かしてない時は?」
「動かす時だけです」
「手術は?」
「してません」
「お医者さんの言うこと守ってた?」
「……………」
叱られる時の空気だ。怒った顔はしていないし怒鳴るわけでもない。だけど細い目にじっと見つめられるだけで、自分の罪を責められている気がする。熱っぽいのを黙ってプールに入って上がろうとしなかった時にもこうだった。
「アスリートに大事なことはなんだい?」
「…………」
「肉体の限界を無視してでも続けるハードな練習かい?」
「………違います」
「信念のために他人の忠告を無視する直向きさかい?」
「………違いますっ」
「それなら、挫折を受け入れる潔さかい?」
「………………っ」
答えられなかった。その質問は先の質問と矛盾して感じられた。息苦しさに目を逸らす。
「諦めることは必ずしも負けじゃない。逃げとも限らない。新しい素晴らしい未来もあるかもしれない。それを欲しいと思えるならね」
「……すいません」
「なんで謝るのさ。本当に競泳を辞めるならそれだっていい。でも、たまには会いに来て仲良くして欲しいけどね」
緊張をほぐすように、仲直りの合図みたいに背中をさすられた。秋沢先生の手は魔法の手だ。小学生の時はそう呼んでいた。