Restart
「おいお前、勝手なこと言ってんなよ。ちゃんとコーチいるだろうが」
「ちっげーよ!バッタならなんでもいいんじゃなくて速くてカッケーのがいいんだってば」
小学生の目には速かったのかもしれないけど、そんなに何度も褒められるような泳ぎじゃなかったはずだ。期待されたって困る。もう一度突き放す言葉を言おうとした時、秋沢先生が静かに割って入った。
「宗介くんの泳ぎはね、たしかに力強くてかっこいいけど、真似は難しいだろうね」
濡れた肩を躊躇いなく触って動かされる。
「宗介くんは肩関節が柔らかいけど、大抵の人はもっと固いから無理にやれば肩を壊しやすくなる。宗介くんは教える方のプロではないしね」
「じゃあ、バッタやるのやめる」
「あれ、折角やる気の芽を出したのに摘んじゃったかな?」
「遅いんじゃ意味ねえし」
いじけた一言に奥歯を噛み締めた。咄嗟に、言いかけた。「そんなことねえだろ」「やってみろよ」全てが即座に跳ね返って自分の頬を打つ。
自分が小学生でバッタを覚えたばかりの頃には、今はいない別のコーチがいた。バッタが専門で、柴谷コーチがフリーを泳ぐよりも速かった。凛と何度も挑戦しては負けた。負けても諦める気はしなかったし、負けても楽しかった。勝つことだけが楽しいんじゃない。勝負そのもの、挑戦すること自体が楽しみだった。競争だけじゃない。新しく覚えた泳法や、コーチに修正してもらったフォームを自分のものにしていくのもいい。楽しかった。
「じゃあ、シュウくんは宗介くんが教えたらバッタやってみるの?」
真面目な顔で頷く強い目が眩しくて目を眇めた。
「宗介くん、今はお家の手伝い?」
「いえ、親父は俺を船に乗せる気がないんで、……一応、浪人ってことで勉強してます」
「じゃあホントにバイトしてみる?」
「先生……」
「コーチじゃなくて基本的には雑用スタッフね。時給が安い代わりにプールが空いてる時は好きに泳いでいいよ。無理にならない範囲内でね。あと、柴谷くん、ちょっと不器用だけどちゃんとしたコーチだから頼れると思うよ」
イエスもノーも即答できずに項垂れた。今更やり直してどうする。
小さな頃にはみんな無鉄砲な夢を抱く。プロ選手、発明家、宇宙飛行士。だけど、他の子供と競争して、負けて
自分の才能のなさを知る。夢への近道となる学校に入ろうとしてふるい落とされる。いつか叶うと信じていた夢にタイムリミットがあることを知って、努力しても間に合わないと悟って諦める。
諦めたかなわない夢にしがみついてどうなるっていうんだ。怪我をするまでまっすぐ見えていた向こう岸の壁が、ゴールが見えなくなったのに。
東京を去った一年以上前に決断は済んでいるはずだったのに断らなかった。
「後でいいよ。うちの子たちの気が変わらないうちだったらね」
踵を伝い落ちる水滴がプールに繋がっていた。
プールサイドに並んだ少女が三人、肩を寄せあってぺこりと頭を下げた。
最近入会した小学生だ。女性スタッフがついてあれこれ説明をしている。
二学期に入ってまた新規会員が増えた。ある程度泳げる子供は大会に向けて練習を重ねている。更に先の市民大会のエントリー名簿を携えてプールを訪れると、ちょうど泳ぎ終えてプールサイドに上がってきたシュウが駆け寄ってきた。
「こら、走るんじゃねえ」
「なあ、俺次バッタ!バッタ出る!」
「何メートル」
「百!」
「何でだよ、試しに出るにしても五十にしとけ」
「じゃあ訊くなよなっ」
泳げないことはないだろうが、元々フリーとリレーにエントリー予定だったから、どちらもやるのは厳しいだろう。コーチにお伺いを立ててからだ。括弧を付けて名簿に書き足しているのを不満そうに覗きこんでいたシュウが名簿に柴谷コーチの名前を見つけて指さした。
「これコーチたちも出るの?」
「一般枠あるからな」
「宗介は?」
「呼び捨てすんな」
「大会出ねえの?よく泳いでんのに」
「俺は……泳いでたってタイムもろくに計ってねえからいいんだよ」
何も考えていないシュウの目から逃れて反対を向くと、ちょうどそこに柴谷コーチが立っていて、危うくプール側によろめくところだった。
「宗介もタイム計ってやろうか?」
ストップウォッチの紐を指にかけてガキみたいにぶん回している。
「いいです」
「つーかさ、お前出ねえの?年齢別だから近くの大学の奴らとやれるだろ。まだぐずぐず言ってんのかよ」
「そうだぜ、俺とは勝負してくれるじゃん」
何をわかっているつもりか、シュウが口を挟む。
「小学生相手ばっかじゃつまんねえだろ。この間勝手にタイム計った数字見る限りじゃ、去年の大学生の部の記録といい勝負だったぜ?」
「何勝手に計ってンすか」
「じゃあ、宗介」
「呼び捨てすんなって」
「俺と勝負して俺が勝ったらエントリーしろよ」
「意味がわかんねえし、それじゃエントリーできねえよ」
「やんねーとわかんねーだろ!」
名簿の空欄をペン先で叩く。
再び泳ぐようになってすぐに体幹を強化するように言われた。同時にフォームを細かく修正して、量より質の練習を続けている。高校の頃みたいに遅くまで自主練ができるわけでもない。限られた時間で理想のフォームを身につけて、丁寧に泳ぐ。少しでも違和感があれば秋沢先生に報告して、休めと言われれば休んだ。小学生の頃の刷り込みで先生には逆らえない。それでなくても、高校の頃よりも医者やコーチのいうことを素直に受け止められるようになっていた。
正直を言えば、今の実力がどれぐらいか知りたい。知ってしまったらまた焦りに潰されるかもしれない。今更地方の小さな大会で勝って何になるのかもわからない。だけど、秋沢先生は「大会で勝とうとする目的なんて……」と言ってシュウたちが泳ぐプールを指さした。
「いい成績が出たら自慢してやったらいいんじゃない?生意気な子に一目置かれるのって気持ちいいだろう」
「そんなの求めてません」
「じゃあ、大きな大会で勝ちたかったのはどうして?オリンピックで泳ぎたかったのは?」
改めて聞かれると、「夢だから」以上の答えが見つからなかった。
「宗介くんが最初に大会で入賞した時、注目されてどうだったか覚えてる?次の大会の時には前回いい勝負だった子がちょうど隣のレーンで、チラチラ様子を窺ってきたって言ってたね。あの時、ワクワクした顔してた」
自分が強いと思った相手からライバル視されるとゾクゾクする。最終的に、小学校時代の一番のライバルは凛だったけど、大会で目立つやつの名前は大体覚えていた。そいつと同じ組になって見渡すと目が合う。その瞬間が好きだった。
「小難しいことは後回しでいいんじゃないかな。夢は諦めたんだろう。今泳いでいるのだって、諦めたものを拾い直したからってわけじゃない。なら小さな大会の一つや二つ、楽しそうだから参加する、でいいじゃないの」
そうして名簿に鉛筆書きで俺の名前を書き込んだ。それを元に正式にエントリーする作業は俺の仕事だった。