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雲のように風のように

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 ロイは思わず目を見開いて、まじまじと夜目にも白いエドの顔を凝視した。見れば目元や耳は赤くなっており、目は、先ほどまでの涙のせいもあるだろうが潤んで揺れていた。唾を飲む自分に気付いて、ロイは、…諦めた。
 諦める以外に、何が出来る。とうに心は陥落しているというのに。
「…降参だ、エド」
「え…」
 眩しげに目を細めて笑うロイにつられて、エドもまた、ぎこちなくではあるが笑み、らしきものを浮かべる。
 ロイは黙って白い、小さな手を取る。そしてゆっくりと指を絡め、繋いだ。
「…ろ…」
 目を丸くするエドの赤い唇に、繋いでいない方の手を伸ばし、そっと指で押した。閉じているように、と。
「………」
 そうして貝になった唇から指を外し、今度は自分のそれを近づける。
 エドが、息を呑むのがわかった。
 …けれど今は夜で、…もしかしたら最後の夜かもしれなくて、そしてもしかしなくても、二人にとっては初めての「夜」で――
「…目を閉じて、」
 顔にかかる囁きの気配に、慌ててエドは目を閉じた。しかしその幼い丸い頬は、可哀想に小さく震えている。それでも逃げないのは、意味をわかっているからだ。
 きちんと、わかっている。その上で、ロイを受け止めたいと望んだのだ。そのことを、ロイももう知っている。
 まさに唇が触れ合う刹那、音のない声が、先にその紅を刷いたような唇に触れた。やさしげに、吐息が愛撫する。
「…ずっと待っていたよ」

 君が大人になるのを。こうやって触れられる夜が来るのを。

 驚いて再び開こうとしたエドの眼を片手で覆って、ロイは後はもう返事も待たずに口付ける。
「…ん、んん…っ」
 くぐもった声がして、とんとん、と胸を叩く小さな手。その手を覆いこむように捕まえて、絡めとって、唇はより深く重ねられる。ぐったりしてくる体に気付いて、呼吸のために離れてやれば、案の定息を止めていたのだろう、ひどく咳き込んだ。
「…エド、…エドワード…」
 抱きこみながらその背を何度も撫でさすってやれば、躊躇いがちに、その指先がロイの上着に縋る。
「…好きだよ。…好きだ…」
 ロイは目を伏せて、思いの限りをこめてそう、囁いた。エドのこめかみに唇をつけながら、祈るように何度も繰り返した。

 初めての夜が最後の夜だなんて、出来すぎた悲恋物語のような符牒ではないか。
 誰を恨むことも出来ず、頭の中がぐちゃぐちゃになって混乱して、どうしたらいいのかもわからないまま、エドは愛されていた。
「…痛い、か…?」
 繋がったまま浅く息を吐くエドの目に涙がにじんでいるのに気付き、それを指で掬いながらロイも詰めた声で問えば、当のエドは力なく首を振り、震える手を伸ばしてきた。その願いを汲んで捕まってやれば、エドは、ひくりと一度しゃくりあげてから、切れ切れの息の合間に、乞う。
「……っしょ、…い、た…」
「………っ」

 一緒に、いたい

 その願いを読めば、ロイも言葉を失ってしまう。どころか必死に抑えていた何かの箍が外れて、ぎゅっとエドの細い体を抱きしめる。腕の中から痛みにだろう、鋭い声があがったが、その金色の髪に鼻先をうずめ、幼さの残る顔に頬ずりして、ロイも言葉なく願った。
 叶わないことは知っていたけれど、同じことを願っていた。


 気を失ってしまったエドを抱いたまま、ロイは、まんじりともせずじっと虚空を睨んでいた。
 …反乱軍はすぐ傍まで迫ってきている。
 もはや和解も何も成り立つまい。
 その前にすべきことはいくつかあった。あくまで都に立てこもり最後まで抵抗するか、それとも、まだ余力のあるうちに逃亡して仮の王朝を立て、王都を奪還するか。大きく分ければその二つだろう。
 だがロイは、今更ひとり落ち延びて再起する気はなかった。
 元から皇帝の位になど興味は無かった。この数年の政務で、忍耐も使い果たしてしまった気がする。皇帝になってよかったことといったら、何しろ、エドと出会えたことしか思いつかないくらいなのだから…。
 ロイは一度強くエドの体を抱き寄せて、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
 今はただ、これだけが守りたいもの。
 唯一つ、いとおしいもの。
「………リザ」
 回廊の気配に向けて、ロイはとうとう口を開いた。
「…すまない。…この子を頼む」
 返事はなかったが、リザがロイの頼みを聞き入れなかったことなど、今まで一度だってなかった。
 だからついでのように紛らわせて、ロイはこうも言う。
「…この子を逃がしたら、おまえも逃げるんだ。いいね」
「…私は、」
「いや。…リザも、ここへ戻ってはいけない。…これが最後の頼みだ。…どうか、」
 音もなく、黒い武官の装束に身を包んだリザが房内に入ってきた。その凛とした立ち姿に目を細め、ロイは、静かに告げる。
「…どうか、幸せにおなり。今までありがとう」
「…陛下、私は」
 ロイは穏やかな顔をして首を振り、身を清めてやるついで、着替えさせたエドワードの体を、そっとリザに向けて差し出すように、寝台に並べた。
 そして自分は音もなく立ち上がる。
「他の女達も明日には暇を取らせよう。…いいね、リザ。けして戻ってはいけない」
「…陛下、まさか…!」
「…。エドワードに、よろしく。本は皆君に上げたかったけれど、持たせてあげることは出来ないと…」
 目を細め、人懐こい顔で笑いながら、ロイは言った。そしてそのまま房を出て行く。出て行きしな、振り返ることなく小さく呟いた。
「…私は、」
「………」
「…ふたりの幸せを、祈っている」
 それだけ言ってしまうと、武官の装束のまま、ロイは回廊へ出て行く。
 そしてそのまま振り返ることはなかった。
 月のない晩のことだった。


 エドが目を覚ましたのは、未明、揺れる荷馬車の幌の中だった。肌を刺すような冷たい空気に覚醒を誘われたのだ。
「……?」
 抱きしめてくれるロイの大きな手がない。温かい腕もない。
 あるのは、
「…静かにしていてね」
 傍らについていてくれたらしいリザの、押し殺した声がした。
「もう少しで王都の門をくぐるわ…」
 エドは声を殺して顔をゆがめた。
 …手元には、何も残っていなかった。ただ夢の名残のように、ロイの熱を体のどこかで覚えていた、たったそれだけ――。










 反乱軍は本当に王都のすぐ傍まで迫ってきていた。
 都の外に出てしまえば、元々の育ちもあり、エドの方が街中には詳しい。無論数年の後宮生活によって容姿は随分洗練されたが、空気を肌で感じ取ることは出来る。そのあたりは、かえってリザの方が怪しいくらいだった。
 当面の路銀はあったが行く宛てがあるわけでもない。それに街道も荒れている。しばらく、王都のすぐ外郭を囲む街に身を潜めることにしたその二日目、エドは反乱軍の兵士の話、それを率いる人間の話を街で拾ってきていた。
「…リザさん、これ食べたことある?」
 屋台で買ってきた焼きそば…のようなものを差し出せば、秀麗な眉目が歪んだので、エドは苦笑した。
「…見た目はちょっと…怪しげだけど、味は大丈夫だよ」
「…ありがとう。…ごめんなさいね。あなたを守ると私は言ったのに…」
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ