雲のように風のように
まだ早い時間ではあるが、既に夜の領内である。そんな時間に、呼んでもいないのに誰かが来ることなどありえない。(リザに言われている出発の時間は、まだ先である)
もし来る者がいるとすれば、それは――…
「………」
とうとう足音は、戸口の前で止まった。
足音といっても本当に微かな音でしかなく、エドの耳がたまたま聞こえがいいからわかったようなものである。
気配は、すぐには動こうとはせず、しばらくじっと立ち尽くしているようだった。
「………」
エドは、寝台の奥、膝を抱えてじっと外をうかがっていた。
あれは、きっと、絶対に…
きぃ…
息を詰めていたエドの前で、果たして――その扉は開かれたのであった。
「…、…エド?」
足音を立てず寝台に近づいてきた人物は、そこで寝ているはずの人間が、膝を抱えてこちらを見ているのに気付き、…数度の瞬きの後、苦笑した。
「…起きていたのか」
ロイは苦笑いを浮かべたまま、そっと寝台に腰を下ろす。
「…出発は早いし、道中は危険も多い。早く休みなさい」
彼は、…まるで聞き分けのない幼子を諭すような調子でゆったりと口にし、そっと伸ばした手でエドの髪をかきあげた。
「…? …泣いていたのか?」
そうして初めて、彼は、潤んだ金色の目に気付いたらしい。光源の乏しさゆえに、気付くのが遅れたようだ。
ロイの困ったような顔を見ながら、エドは、そうか、オレ泣いてたのか…とぼんやり思う。泣いている自覚はなかった。ただ、悲しいと思っただけ…胸がどうしようもなく痛いと思っていただけで。
「…どうした?」
何も言わないエドを、ロイは、少し強く引き寄せた。最初に出会ったときよりは流石に大きくなったが、それでもその性別を疑われることがない程度には、未だに華奢な印象を受ける小柄な体。栄養が足りていないということは絶対にないはずだから、そういう体質なのかもしれない。もしくは遺伝だろうか。
「…どうしたんだ、エド」
胸に抱き寄せれば、…しばらくの逡巡の後、エドの小さな手がロイの衣を掴む。
ロイも今は、皇帝の衣装ではなく、動きやすそうな武官のそれに近い服装を身に着けていた。
「…一緒、て…、…ったのにっ…」
くぐもった声が胸元からして、ロイは息を呑む。
一緒、と。
確かに、それを口にしたのは自分。それを乞うたのは自分だった。最初にその言葉を与えてくれたのは、今この腕の中にいる人だったけれど。
「…エド」
胸元に顔を押し付けるその子供を、ロイは、もっと強く自分に引き寄せた。その小さな頭に唇をうずめて、何度もその名前を呼ぶ。
…そうだ。一緒にいたいと思った。この子供が本当は男であっても、皇后という、自分の一番近い場所に置いておきたかった。一緒にいると楽しい、見ていて飽きない、暖かい気持ちになれる――そこには勿論理由があったが、しかし、いつの間にか、もうそんな言葉で説明できるものではなくなっていた。
だからだ。一緒にいたいと希い…だからこそ、一番に安全な場所へ逃がしてやりたいと思った。他の何を引き換えにしても、守りたかった。
――愛していたから。
「…エド、…エドワード」
ロイはきゅっと目を閉じた。
この子なら、誰にでも愛されて、どんな場所でもきっと明るく生きていける。そんなエドが好きだった。ずっと一緒にいたかった。けれど、一緒にいればこの子の人生まで閉ざすことになる。国と心中するなら自分だけでいい。
「…オレ、…やだ」
それなのに、鼻声で、エドは必死に言い募る。
「やだ。…ロイと一緒にいる!」
「…聞き分けておくれ。お願いだから…」
「やだ…っ、…オレ、オレ…ロイといる! …オレちゃんとする、戦うし、ロイ、守るから…っ」
戦う、という単語に、ロイは目を見開いた。
そしてがば、と胸に抱いた体を引き剥がす。暗闇よりもなお暗い目に、エドは竦んだような顔を見せた。無理もない。ロイは、今自分でも相当怒っている自覚があった。
「…馬鹿を言うんじゃない。戦う? 君が? …君はそんなことする必要ない」
「…っ、…じゃあっ、…なんでっ、リザさんは…」
その名前にロイは軽く目を瞠った。しかし、不機嫌さは変わりようがなかった。
「…あれは、…君とは違う。…あの子は、並の武官より腕が立つし、今までも私の影を守ってきたんだ、君とは…」
エドの目が、そこで本当に泣き出しそうに歪んだので、ロイも口を閉ざす。
「…でも女の人なのに! …オレは男なのに、守られるだけなのか? …なんで、…なんでオレがロイ守るって言ったら、だめなんだよぉ…」
う、と顔をくしゃくしゃにして、下唇を噛んで、エドは必死に泣くまいと堪えている。
その顔を見れば、ロイも怒りが冷めようというものだった。
「…オレはっ…」
もう一度深く胸に抱き込めば、ぎゅうっとしがみつきながら、エドは涙交じりの声で訴えてくる。
「…ロイの、何なの…」
背中を撫でてやりながら、ロイはその言葉を考える。
ひっく、としゃくりあげるのがかわいそうで、だがそんな風に嗚咽を漏らしている理由が自分なのだと思うと、そんな場合ではないというのに嬉しくもあって…。
「…きみは、」
言うつもりのなかった言葉が、ロイの口を割って出てくる。
エドは、ほんの少し体を離して、そんなロイをじっと見つめる。長い睫には涙のしずくが光っていた。
「…きみは、私の…大事な人だよ」
微笑んでいたのかもしれない。
ロイは、ひどく穏やかな気持ちになっている自分を感じながら、静かに告げた。
そう。ロイの、生涯で初めての、大事で大切でたまらない人だ。失うことなど考えられない。けれど、それよりも、自分の運命に巻き込まれて損なわれることの方がずっと恐ろしい。だから早く、遠くに逃がしてやろうと思ったのだ。
…ロイの、色や気配をその身や心に、染み付けてしまう前に。
エドが、ロイを失っても深く傷つかないうちに――
「…だいじって」
じっと見つめていると、エドのきれいな顔がまたくしゃりと歪んだ。そして、ぽろりと丸い涙が一滴、頬を伝う。ロイは言葉を失って、そんなエドを見つめていた。胸の中、腕の中に抱き留めながら…。
「…どういう、大事なの…」
「…どういう…?」
「じっ…自分で言ったんだ…ロイは! そばにいるって、オレが言ったのみたいじゃなくて、もっと違うって、違う『一緒にいたい』だって…っ!」
「……っ」
ロイは息を呑む。そんなロイの前で、エドは涙をやり過ごすために何度も瞬きを繰り返しながら、必死に言い募った。
「…オレ…もう、意味、わかる…」
「…エド…?」
自分の上着の裾を掴む白い、小さな手が震えていることに、ロイは気付いた。その手を上からそっと覆うように捕まえれば、ひっ、と喉を鳴らして怯えたような目を見せる。けれどそれでも気丈に、ロイをまっすぐに見つめて…、
「オレ……」
きゅ、と一度唇を引き結んでから、…開いて、そして蚊の鳴くような声で小さく言ったのである。
「…オレもう…そんなに子供じゃない…」
「――――――!」
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ