雲のように風のように
「ううん。リザさんがいなかったら、オレひとりだったらやっぱりだめだったと思うよ。子供じゃあね…」
子供一人で宿には泊まれまい。それに、確かにリザはあまりにも庶民とは違いすぎて浮くことはあったが、とはいえ本当に武術に優れていたので、絡まれて後れを取るようなことはなかった。それに、かなり豪胆な性格をしている。
「…リザさん。オレ、…思ってることがあるんだけど」
「……」
食べながら、エドはぽつりと口を開いた。リザはその言葉を受けて、食べる手を止める。そして、兄であり、生涯ただ一人の主でもある男から託された子供の顔を見た。
「…。あの、あのね。…怒られるのはわかってる、でも、オレ…」
「…王宮に、戻ろうと?」
「………!」
先を口にしたリザに、エドは目を瞠り息を呑む。
「…。ひとつだけ教えてくれるかしら」
「…なに…」
「あなた、あの人のために、死ねる?」
「………え…?」
「私は死ねる。でもあの人が生きろと言った。生きて幸せになれと。でも私には幸せなんてわからない…だから、あなたを守れと言われたのが今の私のすべてよ。…私の幸せはいつでも彼の上にこそあったのだもの」
そこで、彼女は寂しげに笑った。
それはエドが初めて見た、彼女の真実だった。もしくは、真実の一端。
「…オレは、」
そんなリザを前に、エドは瞬きもしないでぼんやりと口を開く。
「…オレは。…死なない」
「…そう…」
「だって死んじゃったら終わりだから。…だからオレは生きる。…ロイも助ける。一緒に、生きる。ひとりで死ぬのも一緒に死ぬのも嫌だ。一緒に、生きていたいんだ」
一緒に生きる、と口にしたエドワードに、リザが今度は息を呑む。まるで考えていなかったことを聞かされた、という風情だった。
「…どうして死ぬなんて簡単に言うんだ? …生きてたっていつか死んじゃうんだから、それなら、生きていられる間はずっと一緒にいたいよ…、そうじゃないのか?」
言葉を失って目を見開いているリザの手をそっと取り、エドははにかんで首を捻った。
「リザさんも。皆、皆で一緒に生きていこう。どこでだっていいよ。なんで国なんかと心中するんだ? 金なんかなくても、立派な御殿なんかなくても、キレイな服なんかなくても、美味しい食べ物なんか食べられなくても…生きていれば、絶対いいことがあるよ。だから一緒に行こう? リザさん。あの勘違いの馬鹿皇帝一発ぶん殴って、拾って、そんで皆でどこか外国にでも行こうよ。色んなところ旅してもいい。仕事なんてなんでもいい、どうにかして生きていくことなんて、そんなにきっと難しいことじゃないよ。だってオレ、後宮にもぐりこむ前はそうやって生きてた。何にもなかったけど、楽しく生きてた。だから大丈夫だよ、絶対に」
エドは力強くその金色の目を輝かせて、一言一句に力をこめて、リザに語りかける。
「だけど死んじゃったら頑張ることも出来ない。怒ったり笑ったり、泣いたり、…そんなの何にも出来なくなる。オレはいやだな。…一緒に生きていきたい。…たとえば、すっごく大喧嘩してもう別れる! って思う時もくるかもしれない。もっと好きな人が出来ちゃうかもしれない。…でも、それだって生きてるから選べるんだろ? 死んじゃったら…何にも出来ないじゃんか」
ね、とエドは無邪気にも思えるきれいな顔で笑った。
しかしその目の奥にある光を見れば、彼がただ無邪気だからこんなことを言っているのだとは思えなかった。少年はここに至るまでに、その小さな体には余りある体験をしてきたのだと――別れを超えてきたのだと、理解させた。
そして不意に彼女は思ったのだ。この相手のことを知りたいと。ただロイに守れといわれたからそばにいた。けれど、今この瞬間にはっきりと、そうではなく、エド個人のことを知りたいと痛切に思った。ロイの大事な相手だからではなく、自分もこの相手を、この少年だからこそ、守りたいと思っていた。
「…ええ…、」
リザは我知らず胸が高鳴るのを覚えながら、いつしか立ち上がっていた。
「…えぇ、ええ、…エド。あの人を、…助けてあげて」
――助けてあげて。
どうか、国という軛から、彼を。解放して。ひとりのロイとして。
その願いを読み取りつつ、エドはさらりと答える。
「…変なリザさん。…じゃあ、行こうか」
屈託なく笑う細い肩を見下ろしながら、リザは思った。エドがもつしなやかな強さを。そしてそれを間違いなく見抜き、選び取ったロイの強運を。
「…切り札は初めからこちらにあったのね」
リザはうっすらと微笑んだ。そう。彼を救い出す切り札は、自分の中にあったのだ。
この少年こそが、彼の願い、そのすべてをもたらす者なのだ。
「え?」
「なんでもないわ。…では、…腹が減っては戦は出来ぬ、ね。…まずこのご飯を食べてしまいましょうか」
独特の味わいだけど食べ物には違いないわ、と締めくくられたリザの淡々とした提案に、エドは最初普通に頷きそうになったのだが…、すぐに気付いて、くすりと笑うのだった。
「…ん。そうしよっか」
初めて思ったのだ。リザはロイに似たところがあると、ほんの少しだけ。
夜陰に乗じて、一度は脱した後宮へ戻ろうとするふたりの前に、その女性が通りがかったのは偶然だったのか…。
「…マリアさん?!」
潜めた声で、それでも驚きを禁じえず、エドは、後宮に上がった最初、同じ房をあてがわれていた女性の名を呼ぶ。相手も、どうもこちらと同じ理由でどこかへ向かうところのように思えた。
だがその理由がわからなかった。彼女は後宮にいるはずではなかったのか。
しかしそう考えるエドの脳裏に、ロイがリザに言ったという言葉が蘇った。彼は言っていたという。他の女達にも暇を取らせると。ではもう、後宮には誰もいないのかもしれない。彼女もまた故郷へ返されて…。
「…エド。…それに、…リザ?」
マリアは足音もなく、夜をすべるようにふたりの元へやってきた。
「…マリアさん、…どこに…」
先に尋ねれば、彼女は黒い瞳を瞬かせた後、苦笑した。
「…お暇をいただいたんだけど…私、生憎帰る所がなくて」
「え…?」
「故郷はあるわ…でも、私は故郷にいられなくて後宮に上げられたから」
困ったような微苦笑。その意味ありげな台詞を詮索する時間はないが、…とにかく、彼女には事情があって故郷へ帰れないから、後宮から出されても行く宛てもないのだ、ということはわかった。
「…あなたは? …皇后陛下。こんなところで、何を?」
その呼びかけに、金色の瞳が瞬いた。エドはまるでそんなことは忘れていたといった様子で、ぱちぱちと瞬きした後、苦笑した。
「…ちょっと、情報収集にね。…ほんとはオレも暇を出されたんだけど、…気に入らないからさ。ちょっと、旦那のすかした面一発ぶん殴ってやろうと思って、帰ってきちゃった」
舌を出して、エドは悪戯っぽく笑った。この答えに噴出したのは、実はマリアだけでなくリザもだった。そうした上で、彼女たちは互いに目を見合わせ、もう一度笑ったのである。
「…なら、私も一緒に行かせてくれない?」
「え?」
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ