雲のように風のように
くすくすとアルフォンスは笑う。しかしその顔も声もかわいらしくさえあるのに、目だけは笑っていなかった。そして、何より、にじみ出る空気が恐ろしく冷える。
「いいでしょう。いずれにせよ落とすのはあとは皇帝陛下の御しるしのみですから」
にこりと、それこそ天女や仙道のごとき浮世離れした笑みを浮かべ、アルは言い切った。
「どれだけ残っているのか知りませんが、後宮なら美女もたくさんいることでしょう。なに、物騒な術を教えたところで、所詮は女の力です。兵士達の士気も上がるのでは?」
「そ、それは…」
「変わり者の陛下ではわかりませんが、後宮の美女達は房術を極めた床上手ばかりだそうですから。皆さん、励みが出来てよかったですねぇ」
「は…」
「どの道ボクはそちらには興味がありませんので。攻略まではお手伝いしますが、後はご自由に」
では、と若者はにこにこしたままゆっくり歩き出した。
その背中を、彼の倍以上も生きている男が、恐ろしいものを見る目で食い入るように見つめていた。
アルフォンスと名乗った少年がコーネロに近づいてきたのは、彼が、酒に酔って、今の皇帝に出来るなら自分だって国を統べられるとくだを巻いていた時のことだった。不思議な少年は、では、その力を貸しましょうか、と声をかけた。
ひどく落ち着いて、理知的な目をしてはいたが、子供の言うことである。コーネロも真に受けなかった。しかし、そんな彼に、少年は、笑顔でひとつの提案をした。
過去の戦争の配置を棋譜に見立て、戦略で勝ってみせると。
コーネロも興が不思議と乗り、供につれてきていた、唯一酒を飲んでいなかった男に相手をさせた。科挙には落ちたが、地方官吏として働いていた経歴を持つ男だったから、見るからに子供のアルフォンスに負けるとは思えなかった。
しかし蓋を開ければアルフォンスの圧勝で、驚く大人たちの前、彼はにっこり笑って、こう言った。
「でもボクが一番得意なのは錬金術です」と。
唖然とするコーネロの前で、少年は両手を打ち鳴らし、卓につけた。すると、途端にぱきぱきと卓が変形していき、ついには名工の手になるかのような見事な置物に姿を変えたのである。
彼がコーネロに力を貸す理由は判然としない。聞いても少年は笑顔でのらりくらりとはぐらかすばかりで。
ただ、こうして王都に迫ってきて、王宮――いや、後宮の方を物憂げに眺めている姿が多く見られており、恐らく縁のある女性があの中にいるか、後宮絡みで不幸な目に遭ったかどちらかだろう、と噂されている。
今後宮には、かつての賑わいはなくなっていた。かつて「ほどの」賑わいは。
「…エドっ!」
ずかずかと足音も荒々しくやってきた、普通の武官に比べればやや華美にも見える装いの男は、騒ぎというか人だかりの中心に居る人物へ向かって、真っ直ぐに向かっていく。
その顔ははっきりいって険しい。かなり怒っているらしかった。
「よ」
だが、呼ばれた方はのんきに振り返り、片手を振って答えた。質素な、動きやすい装いにはなっているが、あてやかな衣装を身に着けている。
…皇后に相応しい…。
「一体何をしている?! 逃げろと…!」
「陛下」
詰め寄ってきた男とエドとの間に割り込むようにして声を発したのは、金の髪をした…、
「リザ?!」
ロイは絶句してしまう。まさか、リザが自分の言いつけを守らないとは思ってもいなかったのだ。
「…まあまあ落ち着けって。…あ、マリアさん、こいつ、その辺に縛っといてくれる?」
エドは、ロイには小さな子供に対するように笑いかけた後、表情を消すと、目の前に転がって伸びている人物を蹴りだすようにする。
「はい」
「ぎゅーーーーーーーっとやっといていいから。ほんと、ふてぇ野郎だぜ」
ふん、と鼻を鳴らしたエドが蹴り飛ばしたのは、どうやら宦官のようだが…、ロイは、その顔を見て、あ、と小さく声を上げる。
「知り合い?」
そんなロイに、エドは気のない様子で声をかける。
「知り合いというか…教授の弟子だったような…」
「ご名答。――こいつが内通者だったんだよ、…陛下?」
「…!」
「まあその辺の詳しい話は場所改めて、かな。…なあ、それよりさ」
そこでエドは初めて気遣わしげな表情を浮かべた。
「ちゃんと食ってる? なんか目の下隈になってるぞ?」
ほんのすこし背伸びして、ちょこん、と伸ばした指でロイの瞼の下に触れる。一応周囲にはリザを初め数人の宮女たちがいるのだが、微笑ましそうに見つめるだけで誰も何も言わない。マリアだけは、下手人を引きずって回廊をどこぞへ向かっていたわけだが。
「な…」
ロイは思わず絶句して息を飲んでしまう。慣れていないのだ、こういう扱いに。
「ほーんと、ガキみたい。…よくわかんないけどさ、生きてるのが一番大事だと思うよ、オレは。正直今ってかなりきっつい状況だけど、悲観してたらどうにかなるもんもならないよ。まずは腹ごしらえだ。…っと、陛下の後ろのおまえら、武官だよな?おたくらがしっかりしないと、ほら、この陛下ちょっとぼーっとしたとこあるから」
勢い良く市井の気安い口調で言った後、エドはにっこりと笑った。
…反則だ、とロイなどは思ったものだ。
そんな可愛い顔で笑われたら、逆らえるものも逆らえなくなるではないか、と。
一度は逃がしたはずのエドが後宮に帰ってきていることをロイが知ったのは、エドが後宮に戻って数日してからのことだった。なぜわかったかといえば、…エドが、行く宛てのなかった宮女を集めて訓練を始めたからである。同時に後宮をかなり強引に――得意の錬金術を使って罠だらけの要塞に仕立て上げ始めた。さすがにそんなことを始めれば、ロイにだって何事かが起こっていることはわかる。
そうして、その中心にいる人物を突き止めることなど、容易かったわけで。
…もっとも、エドは初めから隠すつもりも隠れるつもりもなかったらしいのだけれども。
男子禁制の後宮の決まりをぶっち切って、その一角で炊き出しを始めたのだ、彼は。まあ元々本人は男なのでそういう意識が最初からなかったのかもしれないが。
しかしそんなことはともかくとして、エドが初めたその行動は、王宮に残る兵士の士気を大いに高めた。
「…どうして戻ったんだ?」
エドに引っ張られるまま簡素だが栄養はある食事を取り、そうしてから無理やり休息を取らされつつ、ロイは尋ねた。
今彼は、かつてエドのものであった皇后の房で、その「皇后」の膝に頭を預けていた。エドはといえば、そんな男の黒い髪を、やさしく梳いてやっている。…これではどちらが大人だかわかったものではない。
「…どうしてだと思う?」
「…。わからない」
「ばぁか」
ぴん、とエドはロイの耳をつまんだ。そしてくすくすと笑う。ロイが痛いと小さな声を上げたからかもしれない。
「あんたのことをぶん殴りに来たの!」
「…殴るのか?」
「そ。…オレだけ安全なところに逃げろ、なんてさ。…頭来たから」
「…それは怒ることなのか?」
ロイはわけがわからず顔を上げた。すると…。
「怒ることだよ。だって、一緒に居るって、言ったじゃないか」
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ