雲のように風のように
エドは、…ひどく大人びたきれいな顔で目を細めると、そんな風に言った。思わずそれに見惚れていると、ふっと笑って、エドはそっとロイの額を撫でてくれる。
「…エド」
ひそやかに呼んで、ゆっくりと腕を伸ばした。片手で顔を引き寄せれば、抗いもなく顔が近づいてきて、そして、唇が触れ合う。
何か言いたそうにエドの目が一瞬細められたが、彼は何も言わず、ほんのわずか目元を染めただけで、目を閉じた。やがて口付けは深くなる。
鼻を抜けるような声がして、ロイはもう、膝から頭を上げて位置を入れ替えた。小柄な体を組み伏せて、上からじっと見つめる。睫が震えて、そっと瞼が開かれた。あの夜泣いていた瞳には、今は悲しみの影など見当たらない。
「…エド、」
言葉にならずただ呼んで、その胸に頭を預けた。細い気のする腕が回されて、頭を支えてくれる。額に少年の鼓動が響いてきて、ロイは目を閉じる。
「…ひとりで死のうなんて、…絶対許さないからな」
拗ねたような声がして顔を上げれば、泣き笑いのような顔でエドがこちらを見ていた。それに笑って、鼻先に口付ける。
「ごめんよ」
「謝るな、馬鹿」
「…一緒に、いたいと思っても、いいんだな…」
「いいって言ってるだろ、オレは」
怒るからな、と口を尖らせた後、すぐにエドは笑い出し、ぎゅうっとロイの頭に腕を巻きつけた。
「痛いよ、放してくれ」
「いやだ! もうちょっと反省しろ、あんたは」
楽しげに笑いながら、エドは締める腕を止めようとしない。ロイもまた笑いながらで、じゃれあいの域を出ない。やがてロイはエドの隙をついてちゅっと頬に口付けし、そうすればエドもまた同じことをやり返す。
今の状況も何もかも、一瞬忘れて、久々にロイは心の底から笑ったのだった。
宮城の見取り図を広げ、まるで参謀、いやそれどころか軍師か何かであるかのごとき落ち着いた態度で各所に指示をするのは、黒髪を男のように短くした佳人であった。
「例の噂は十分に広がっているようです。賊軍は真っ直ぐにここを目指してくるでしょう」
とん、と彼女の指先が示したのは、後宮。
総大将は、黙って頷いて見せた。その隣に立つ人物は、熱心な顔をして何度か頷く。一対の雛のような取り合わせは見ていて妙に微笑ましい。場の雰囲気すら和んでしまいそうになる。
和んでいる場合では、勿論ないのだが。
「しかし、彼らは後宮のことを、知らない」
俄か軍師――マリアの言うことは、もっともだった。後宮に立ち入れる男子は基本的に皇帝だけで、後は宦官と女性しかいないのだ。情報を流していた内通者はどうももぐりの宦官だったらしく、男としての機能を持っていたようだが…。
内通者を捕らえた今、彼からどの程度の情報が流出したかは調べねばなるまいが、しかし、真に格たる部分は漏れていない、とマリアは考えていた。
なぜなら、彼は宦官とはいえ正式の官ではなく、教授の弟子だったからだ。后妃教育を主務とする教授は、本来の後宮を知っているとは言い難い。真実後宮を理解しているのは、古株の女官か同じく古株の宦官くらいであろう。彼は、幸いにして、そうではなかった。
「後宮の入口には仕掛けがあります。陛下はご存知でしょうけれど」
ロイは軽く目を瞠って頷いた。
確かに、後宮にはいくつもの罠が仕掛けてある。当然といえば当然の処置だ。ここは皇帝の夜のための場なのだから。外から入るにも、内から出るにも、相応の手順を踏まなければ出入りが叶わないように作られていた。
「しかし賊軍はそれを知らない。彼らが知っていることは、三つ」
「三つ?」
リザが不思議そうに首を傾げた。マリアは頷き、エドが口を開く。
「ひとつ、ここに玉璽がある。ふたつ、ここに皇帝が逃げ込んでる。みっつ、…後宮には女がたくさんいる。…かな?」
「ご名答」
マリアは生徒を褒める教師のように微笑んだ。
「つまり、取るに足らぬものとして彼らは油断して攻め入ってくる。そこに私達は活路を見出すしかないと思うの」
「そうだね」
エドは頷いた。
「後宮の入口は二重になっているわね」
マリアは続けた。会議に参加している全員が頷く。
後宮には門が二つあって、内裏から続きの門を潜るか、もしくは城壁から入るかの二つである。しかし二重になっている入口というなら、賊軍の侵入路として最も可能性の高そうな、城壁に繋がる門であろう。
内裏からの続きの門は、皇帝が渡ることしか考慮に入れられていないので、大人数が攻め入れるような広い道ではないのだ。だから、そちら側の警戒と、城壁側からの侵入では警備の質は当然異なったものとなる。
多少話がそれたが、とにかく、城壁側から後宮に入ると、まず大きな門があり、その先は隋道となっていて、もう一度門がある。今マリアが会議の俎上に載せたのは、その入口のことだった。
「最初の門は普通に入れてしまおうと思うの」
「…隋道で叩く?」
マリアは顎を押さえた後、そうね、それと、と接いだ。
「後は、次の門から入った所で」
マリアは見取り図に視線を落とした。
「…一の門には人を置かない。勝負は二の門で仕掛ける」
武門の女性は、厳しい顔で見取り図の一点を指差した。そこには二つ目の門。
「隋道に落とし穴を幾つか作りましょう。それと、出て来たところに、屋根から矢を射掛けるわ」
マリアの指先が、門の上でとん、と動いた。
「人員が厳しいから、…」
「あ、ちょっと待って」
そこでなぜかエドが手を挙げ、発言を求めた。
「なに?」
「一回しか使えないけど、最初に仕掛け置かない?」
「仕掛け?」
そう、とエドは頷いた。
「射出器。でかいの」
「…そんなものは今からではとても…」
困惑するマリアに、エドは首を振った。
「作れる。オレは、…オレ達は錬金術師だから」
そこでに、と笑って、エドは総大将を振り向く。ロイはといえば、一瞬唖然とした顔をしたあと、そうだな、と頷いた。
「二の門を開けて出てきた所で発動するよう仕掛けよう。射出器…は確かに難しいかもしれないが、もう少し少ない労力で何とか出来るかもしれない」
ふむ、と皇帝は顎を押さえて幾分考え込む様子を見せた。
逡巡はすぐに終わり、彼は軍師を見る。
「火を放つ」
「…ロイ、…焔を」
既にして陛下等という尊称をつける気がさらさらないエドは、それだけに親身な態度を示した。
「陣に相手が踏み込んだら発動するようにしておこう。だから、入口に裂く人員はわずかでいい」
「…陛下、…焔、とは?」
マリアが慎重に問うた。それに、ロイは淡々と答える。
「私の…得意な錬金術だ。文字通りだよ。多少加減はするが、敵兵に焔が襲い掛かる、という寸法だ」
「…よくはわかりませんが、…戦力として期待できるということでよろしいですか」
「それは大丈夫だ」
ロイは、鷹揚に頷いた。エドだけが心配そうな顔をしているが、それは、マリアが心配するのとは別の意味のように思われた。彼は、ロイ自身をこそ心配しているような…。
その視線に気付いたのだろうか。ロイはわずかに視線をめぐらせ、エドの目を拾う。そうして視線を合わせて、大丈夫、というように目を細めた。
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ