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雲のように風のように

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 反乱軍は既に宮城の包囲網を完成させており、残った禁軍は宮城内に立てこもっていた。今上帝からは、機を見て降伏する旨が伝えられている。
 出来る限り細かに兵のひとりひとりに声をかける、若い皇帝ともっと若い皇后の姿が、彼等に最後の力を与えていた。
 無駄に死ぬことはない、というのが、皇帝夫妻の言葉だった。
 事実、彼等は反乱軍と折衝を繰り返しているらしい。それはつまり、降伏したとしてその後の兵士への待遇とか、そういう話をしているということだ。
 兵士の中には、早々に逃げ出して郷里に帰ろうという者もいたが、逆に、最後の一時まで皇帝のために働きたいという者もいた。
 非戦力である女達は順次逃がしていると聞く。しかし、皇后と、幾人かの妃達はまだ後宮に残っている。最後まで皇帝と運命を共にする気なのだろう。そういえば、皇后という人は信じられないことに庶民の出だと聞いているから、今更帰れる家もないのかもしれない。もしも貴族の姫であれば、家族が助けてくれたかもしれないが…。
 高く堅牢な塀を挟んで、両軍はにらみ合いを続けている。
 だがそれもそう長く続くことではなさそうだった。


 そうやって緊張が続く、ある夜。
 そんな現状が嘘のように、書庫にて向かい合う皇帝と皇后がいた。
「…結局、騙してしまったことになるのかな」
 本をひっくり返すエドに、ロイがぽつりと言った。普段なら集中して声も拾わないエドだが、やはり状況のせいなのか、すぐに顔を上げた。
「…誰が誰を?」
「私が君を」
「…? なんで?」
 エドは不思議そうに首を傾げた。自分がロイを、だったらまあわからないでもないのだが…何しろ自分は男の癖に、文献読み放題触媒使い放題に惹かれて後宮に紛れ込んだのだ。性別詐称は立派な虚偽申告だろう。
 しかしロイは困ったように頷いて、肩を竦めた。
「三食昼寝付きに文献読み放題触媒使い放題…が君にとっての好条件だったわけだろう? こうなってしまっては、もうそんなことは約束できないし」
 この台詞に、はぁ、とエドは脱力した。誰がこの状況で騙されたなんて言い出すというのだろうか。
 大体、もしも「騙された」というなら、もう少し違うようなことだと思わずにいられない。
 やさしいかと思ったけれど、存外意地悪だ、と。
 そういう意味では確かに騙されたのではないかと思っている。
「…そーだなー…大体あんた、自分のこと皇帝って教えてくれなかった」
「それはしょうがないだろう? 明るみに出せることではなかったよ、あの時はまだ」
「…そりゃまあそうだろうけど…皇后に選ばれましたー言われて皇帝が…あんたが来るまでのオレはほんとにかわいそうなくらい緊張してたんだぞ! あっなんか思い出したら腹立ってきた」
「…確かに随分緊張していたな、あの時は」
 くつくつと喉奥で笑って、ロイはそっと手を伸べた。それにエドが首を傾げると、おいで、と今度は声に出す。
「今は緊張していないだろう?」
「…してないけど…なに」
 警戒はしている顔で、エドは近づいてこようとしないので、ロイは結局自ら小さな手を取り引き寄せた。
「…なんだよ」
 そして自分の膝の上に乗せると、困ったようにエドは眉根を寄せる。

 巷説に言う、後宮に美女三千人、と。

 …だが。
「…君がいい」
「…は?」
 縋るように抱きしめると、ロイは言う。
「君一人に、かなわなかったんだ、誰も」
「…? なんだかわかんないけど…なんだよもう、懐いちゃって」
 くすりと笑って、エドは黒髪をさらさら撫でてやる。
「可愛くなってもごまかされないぞー、オレは」
「私は可愛くない。可愛いのは君だろうに」
「オレは可愛いんじゃなくて格好いいの」
 ぽかりとはたかれ、ロイは頭を上げた。その目がひどく真剣だったので、え、とエドは気持ち身を引いた。何か反応を間違えたのだろうかと。
 だが、そういうわけではなかった。
「――まあ、形容詞はどちらでもかまわないが」
 かすかな声の後、目を閉じたロイに下から掬い上げるように唇を奪われた。
「…っ」
 途端、エドの顔が真っ赤になる。
 この前は必死でいたから羞恥を感じるどころではなかったが、今は違う。
 慌ててロイの肩を掴んでやめさせようとするものの、力が入らずうまくいかない。気付けば、目を伏せて、縋るようにその肩に捕まっていた。
「…楽な暮らしはさせてあげられないだろうけど、一緒にいてくれ」
 唇が離れて、息を細くしているエドを受け止めると、最後の皇帝は音のない声で囁いた。それに答えはなかったが、馬鹿、というように背中が叩かれた。
 きっと声が出たならエドはこう言っていたに違いない。
 楽な暮らしがしたいからあんたといたいと思ったわけじゃない、と。



 玉璽は権力の証である。
 要するに皇帝の印なわけだが、全ての印より上の効力を持つ国璽であるから、言ってしまえば国の最高権力の証でもあるのだ。
 反乱軍が自ら王朝を立てるのかどうかはわからないが、もしも位を簒奪するのであれば玉璽を手に入れるつもりなのは明らかだ。それを手に入れれば簒奪者は王朝の正式な後継になるのだから。
 だが、アルフォンスはそういう理由だけで玉璽を重要視しているわけではなかった。彼には彼の理由が、それもそれなりに切実なものがあったのである。
 玉璽は名が示す通り玉で出来ている。それも最高級の「玉」だ。
 普通の人間にとって、それは、価値のある宝であって、それ以外の価値はない。だが、アルフォンスにとって、そして兄にとってはそうではないのである。それにアルフォンスが気づいたのは、エドワードを見送った後だった。
 きっと兄は気づいていなかっただろう。どころか、今生きているかどうかさえ怪しいと思っていた。
 まさかその兄が皇后になっているとはさすがにアルフォンスも予想していない。
まあ、普通はそうだろう。こればかりは、すべて彼の兄の意外性のなせる業としか言いようが無かった。

 彼ら兄弟は、ホーエンハイムという西から流れてきた男の子だった。この国の戸籍はなかったから、母とは正式に夫婦になったわけではなかったが、彼の持つ不思議な技術はたちまちのうちに庶民の間で知られ、引っ張りだこになった。その技術とは錬金術。しかも、ホーエンハイムのそれは、手を合わせただけで術の発動を為すものだった。破格といってもよかった。
 それが、奇跡ともてはやされ、珍重されているうちはよかった。
 が、いつしか彼のその技は貴人の知るところとなり、戸籍のない彼は流人として召され、ついに帰ってくることはなかったのである。
 風の噂に捕まった場所から逃げ出したとも聞いたが、それきり会っていないので、アルフォンスの中では死んだも同様だった。どのみち、今さら会いたいとも思わない。母は、父が捕まってから、心労のあまり倒れて、そのまま帰らぬ人となっていたからだ。今さら父親に帰ってこられても、再会したとしても、アルフォンスにもどんな顔をしたらいいのかさえわからないのだ。自分と兄を育ててくれたのはピナコだと思っているし、ウィンリィのことも姉弟のように思っている。
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ