雲のように風のように
だが、父親に対する感情がどうであれ、彼が自分と兄の父親であることは変えようのない事実だった。そして、それに付随するある真実も。
玉璽は玉で出来ている。
…そして、玉の中には、彼らの錬金術と深いかかわりをもったものが存在する。
そのことをアルフォンスが父が残した手記の中から発見したのは、本当に偶然だった。だが、見つけたのが遅すぎたのだ。そもそもそんなものがあったことさえ知らなかった。
エドが姿を消した朝、ピナコがため息混じりに差し出してきたそれは、父から預かったというものだった。本当は、あんたたちが大人になったら見せてやってくれっていわれてたんだけどねえ、と苦笑まじり彼女は言った。
そこに書かれていたのは、驚くべき話だった。荒唐無稽、とアルフォンスも最初は思った。
彼の父が、そして彼と兄が手を合わせただけで錬金術を使える、その理由がそこには書かれていた。曰く、ホーエンハイムが生まれた国の技術で、ある特別な石を体内に納めることで、特別な術を使えるようになる、というものだった。
その一文は暗号で書かれており、アルフォンスも読むのに難儀したが、読み終えてからの方が血の気が引いたことを覚えている。
賢者の石。
それは、錬金術において最高とされる媒介、そして最高とされる練成物の名だった。それを体内に吸収したがゆえに、ホーエンハイムにはあの錬金術が使えたのだと、それがその手記に書かれた内容だった。その融合は簡単に解けるものではなく、無理に引き剥がそうとすれば命が失われるのだと父は書いていた。そして、それが体内に融合しているおかげで、普通の人間の倍以上もの時間を生きているのだということも。
だが、トリシャと出会ったことで、彼はその困難な除去手術について真剣に取り組み始めた。言うまでもない。トリシャと同じ時間を生きるためだった。子供の死を見取らないで済むようになるためだった。
だが、道半ばにして彼は権力者に連れ去られてしまった。その後のことはわからない。今もトリシャの死も知らずにどこかをさまよっているのかもしれない。父のその真実は、アルフォンスを暗い気持ちにさせた。
だが、問題はそれだけではなかった。
元から体内に賢者の石を融合させていたホーエンハイムはともかく、生まれてきた子供たちにも同じ術が使えたことで、彼は驚愕したのだ。自分に溶け込んだ賢者の石の成分が、子供達にも及んでいるという事実に。
自分の場合は原因がわかっているからいい。取り除く術もないではない。だが、子供達は違う。おそらく彼らにその力が現れたのは、ホーエンハイムの血脈に溶け込んだ賢者の石の成分ゆえに違いない。他に原因は考えられなかった。これで子供達の成長が極端に遅いようなことがあれば、それだけ賢者の石の影響が強いということになる。
その懸念は、兄に対して特に向けられていた。
アルフォンスは、確かに術は使えたが、成長は他の子供と比較しても特に早くも遅くもなかった。だが、エドワードは、はじめからそういう小柄に生まれついていたのかもしれないが、かなり成長が遅かった。それと反比例して頭脳の成長はいやに早かったのだが…それもまた、父の不安を高めたものらしい。
父は手記の中でこう記していた。
この国に流通している玉の中に、どうした理由でかはわからないが、賢者の石と反作用するものがある、と。その石に触れると自分は痺れたようになり動けなくなったことがある、だから、自分の血を顕著に引く息子達にはけしてその石に近づかないように、と。そして玉の特徴が続くのだが、…その中に玉璽も含まれていた。
ホーエンハイムは初め西方からのキャラバンに混じってやってきて、その錬金術を手品だと披露していた。そのキャラバンを屋敷に招いた貴族が居て、その時、悪いことに前代の皇帝がそこにいたのだという。彼は戯れに「この璽の姿を変えて見せよ」と命じたという。普段のように触れようとして、…父はその石に打たれたように動けなくなった。突然の術者の変化に場は騒然としたが、なるほど玉璽だけのことはある、と皇帝は満足して帰っていったのだという。まさか触れることはないと思うが、と父は書き添えていた。
確かに、まさか息子が後宮に入るとは彼も予想だにしていなかったに違いない。
それからさらに手記を読み進めていくと、宮廷に連なる学者がホーエンハイムの術に目を付けているらしいということ、もしも自分の息子にも同じことが出来るとわかったらただではすまさないだろう、ということなどが書かれていた。
つまり、兄が消えたのはまさに、父が絶対に近寄ってはならないと言っていた場所なのである。アルフォンスは頭を抱えた。
どうにかして兄を説き伏せなくては、と思ったアルフォンスは、…落ちついて見えても兄の弟だった。
単身後宮へ乗り込もうと決意して、実際に宮城まで向かったのである。さすがに正攻法ではいかなかったが…忍び込む隙をうかがって、虎視眈々と待っていたのだ。
が…。
そんな彼の前で、ある光景が繰り広げられた。
それは、見るからに遺体が運び出される瞬間だった。
葬列に近づいてさりげなく聞き込めば、それは、宮女の遺体だという。まさか兄では、と不安を深めたアルフォンスに、相手はこういった。馬鹿なことだ、皇帝陛下が錬金術を好まれるからと聞いて手を出して、反対に命を落としてしまった、と…。
この言葉で少年は奈落の底に突き落とされるくらい絶望した。
それでは間に合わなかったのか、と。
兄は、自分の解読が遅かったばかりに、命を落としてしまったのか、と…。
その日から彼は、皇帝への復讐を誓った。コーネロに近づいたのもそのためだ。すべては、皇帝への、…自分達親子の生活を踏みにじった特権階級への復讐のためだったのだ。
「…待っててね、兄さん。僕が仇をとるから…!」
――実はまったくもって見当違いな逆恨みであることを、彼はまだ知らなかった。
なんというか、…血は争えないとでも言うほかない。少し考えれば、死んだ宮女が身体を改められないわけがなく、そうしたら男だとばれて普通に埋葬などされないであろう、ということに思い至らなかったあたりが…盲目というかなんというか…。
つまり、皇帝もコーネロも、はた迷惑な兄弟に振り回されているといえないことはなかった。幸か不幸か、どちらの陣営にもそれを悟る者はいなかったけれど。
とうとう最後の精兵が後宮を中心にした篭城の構えを完成させたその日。
皇帝夫妻に、ささやかながら、暇を出されながらも残っていた宮女達から贈り物が捧げられた。
「…これ…」
いつの間にそんなものをこしらえていたのか、それは、二人の身の丈にぴたりと合わせられた武官の装束だった。
いや。
格式や作法でいうのなら、それは型破りな装束であった。色使いや布の使い方が、常の武官のそれより華美にして壮麗だったのだ。
だが、さすがは宮女の作というべきか、なんとも美しいできばえだった。
皇后たるエドには、緋色を基調とした、髪の色とあわせたのか金糸の縫い取りが目に鮮やかな装束を。
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ