雲のように風のように
一体、彼らは何者なのだろか?
二人を見送ったエドの胸中は複雑だった。
…べつに、あんなやつどうだっていいんだけど。
ぶつぶつこぼしながら、それでもエドは回廊を全身で気にしながら本を読んでいた。
だが、なんだかさっぱり内容が入ってこない。
そうこうしているうちに、一昨日の夜くらいの時間になった。
「………」
エドはそおっと房を抜け出す。
「エドー?」
背後からは、やはり寝ぼけたようなエミリーの声がしたが、ちょっとトイレといってごまかした。
「………」
相変わらず回廊はしんと静まり返って。
…あの時のあれは夢だったんじゃないかとか(あの日の次の朝、リザとたまたますれ違ったが、彼女は何事もなかったかのような態度だった)。…自分は寝ぼけていたんじゃないかとか。
そういうことを思って、やっぱり帰るか、とエドが顔を上げた瞬間の事だった。
「――やぁ」
いつの間にやってきたというのか、すぐそばに突然現れた気配。その主が、低く囁くようにエドに声をかけた。
「…っ」
あまりの唐突さに思わず肩を跳ねさせると、青年はくすくす笑って、エドの小さな両肩を抱きこむようにした。そうして自分の胸に収めた顔、その顎に手をかけると、のぞきこむ自分の顔を目を合わさせる。
「…こんばんは」
「…っ、あんたっ…」
しぃ、と青年――ロイは片手を離して人差し指を己の唇の前で立てた。
「静かに。エド」
「………」
「――おいで?」
彼はエドを離すと、くるりと彼に背を向ける。
それから一度肩越しに振り返って目を細め、促すように言うと、そのまま前を向いて歩き出してしまう。
「…っ」
エドは慌ててその後についていく。
ロイは、誰かの歩調に合わせるということをさっぱり考えない人間らしくて、エドはついていくのでせいいっぱいになる。
…悔しいが、身長が違いすぎるのだ。
「…」
と、ようやくそんなエドに気付いたのだろう。
ロイはちらりと背後を一瞥し、立ち止まった。
「……?なに…」
エドは一瞬遅れてそれに気付いたが、立ち止まった彼が、立ち止まったどころかこちらを振り向き、そして覆い被さるように腰を屈めてきたので言葉を失う。
「――っ」
「しっ。…なに、落としはしない」
彼はひょいとエドを抱き上げると、またすたすたと歩き出す。
「ちょ、ま…!」
「時間が惜しい身でね。君の歩くのを待っていられないのだよ。…悪いが、我慢してくれ」
ロイは肩を竦め笑う。
ちっとも悪いなどとは思っていない顔だ。
「………っ」
「…しかし子供は体温が高いというのは本当だね。君は随分あったかいな」
「誰がチ…!」
「しっ。…静かに、といっただろう」
声を荒げかけたエドに、ロイは一瞬だけ目つきをきついものにした。
「…すぐつくから、ちょっと我慢しなさい」
「…………」
そうして、歩く事数分。
ロイは、観音開きの丹塗りの扉の前で立ち止まった。
それは大層立派な扉で、ついでにいうなら、もう後宮から出てしまうくらいの位置にあった。
――エドは、その立地を把握していなかったけれど。
ロイは気負ったところもなく、その扉を押した。
「……?」
当然の事だが、室内はたいへん暗い。
「…ちょっと待っていておくれ。今灯りをつけよう」
すとん、とエドを下に降ろすと、ロイは悪戯をする子供のような声でそう言った。
パチン。
「…? ………!」
乾いた音がして、その後は鮮やかなものだった。
どこにあったのかさっぱりわからなかったが、空中に灯が浮いた―――いや、並んだ書棚、その壁面に設えられた燭台のひとつに突然灯が燈ったのである。
「全部つけるとさすがに怪しいからね」
その燭台を壁から外すと、青年は面白そうに、まだ驚き覚めやらぬ小さな子供をのぞきこんだ。
「…驚いたかい?」
エドは、黄金の目をいっぱいに見開いて、こくこくと何度も頷いた。
そうか、とロイは満足げに目を細め、そんなエドを見つめるのだった。
「なぁなぁ」
子供は、好奇心で目をきらきらさせてロイの袖を引っ張った。
「ん? なんだい?」
「今、何したんだよ?」
燭台の灯を受けて、その瞳はいよいよ蜜の黄金に輝く。
「…知りたいかい?」
悪戯を打ち明けるように、ロイは尋ねた。
こくりとエドが頷けば、じゃあ、内緒だよ、と青年が腰を屈める。
「…コレを見てご覧」
「…? なに、それ…」
青年は、手袋をつけた片手を差し出した。いつつけたのだろう、いや、最初からつけていただろうか?
「ここ、だ」
「……?」
エドは、示された手の甲をまじまじと覗き込む。
許された手をしっかりと握りこんで。
「…あ…?」
その様子を微笑んで見守っていたロイの耳に、子供の少し高くなった声が届いた。
「コレ。…錬成陣?ロイ、錬金術師…?」
子供は顔を上げて、目をいっぱいに見開いて尋ねた。
それに頷きを返せば、エドはさらに目を皿のようにした。大きな瞳が、いまや零れ落ちそうになっている。
「…ああ」
ゆっくりとそれに答えれば、子供が「すげえ」と小さな、しかし熱い声で呟いた。
ロイは、それに満足そうに笑った。
エドは矢継ぎ早に質問した。
なぜ錬金術師がここにいるのか。
本当は何者なのか。
どうして自分を書庫に連れてきたのか。
どうして後宮の立地に詳しいのか。
どうして――…。
「…エド?」
やわらかに笑って、ひとつも答えを寄越さなかった青年は言う。優しく咎めるように。
「読まなくて、いいのかい?さすがに夜が明ける前に帰らないと…」
「あ」
それで、エドも最初の目的をすっかり思い出したのだろう。途端に途方に暮れたような顔になる。
「…さすがに一晩じゃ全部は無理だ」
しゅんとした子供の顔を覗き込んで、青年は笑う。
「また連れて来てあげよう。だからそんな顔をしないでくれ」
「…ほんとか?」
「本当だとも」
口を尖らせる子供に、黒髪の青年は笑った。
「まあ毎晩とはいかないだろうがね。…合図を決めよう。合図をしたら、君を連れて行ける日だ」
エドの顔が輝いて、こくこくと頷いた。
「どんな合図がいい?」
「んー…」
問われ、エドはきょとんとした。それから考え込む。
「君がすぐわかるような合図は、何かあるかな」
追い込むでもなくロイは尋ねる。
「…あ」
と、しばらく考え込んでいたエドがはっと顔を上げた。そして、燭台を指差す。
「…?」
「また、あれやって。回廊に蝋燭置いとくから。それに火をつけて。さっきみたいに」
エドはにこにこと提案した。
ロイは一瞬目を丸くしていたが、すぐに笑顔になって頷いた。
「ああ。了解だ」
「なーぁ」
小さな手で頁を繰りながら、珍しいことにエドは意識を外に向けた。何が楽しいのか読書する子供を飽かず眺めている青年は、猫が鳴くような呼びかけにうっすら笑う。
「なんだい?」
「あのさぁ…」
言いよどむのは、この子の性質を考えれば「らしくない」ことに思えた。それだけに、何を言おうとしているのか気に掛かるが、まったく予想がつかないわけでもなかった。
「…。ロイは、なんでここの本、読ませてくれるの?」
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ