雲のように風のように
この、困ったような顔をされると駄目だった。折れてやらなければという気持ちになるし、なんでも聞いてやりたくなるのだ。
「…よそう。怒ってるわけじゃないんだよ」
「ん…。…でもさ。…ロイ…やっぱ、他の人の所、行かなくちゃ」
と、――いつもはそれで引き下がるエドが、今日に限って俯いてそんなことを言う。
「…エド?」
「…。だって。…オレだってロイといるの、楽しいけど…。来てくれた方が、そりゃ、いいんだけど」
「………」
「だめじゃん、そういうの。…だってオレ、…お后さまの仕事何も出来ないもん」
ぽつりと零された言葉に、ロイは目を瞠る。そして慌てぬように盤を横に寄せ、正面からエドの手を取り、その顔を覗き込むようにした。
「……エド?」
あやすようにやさしく呼べば、ちらり、と窺うような上目遣いでロイを見上げる。それには惜しみない慈愛の笑みを浮かべてやる。
「それは君が気にすることじゃない」
「…でも…」
「私も君といたいんだ。…なに、平気さ。私はまだ若いからね。そんなに無理して頑張らなくても、何とかなるだろう」
何が何とかなるのだろう、と少しエドは思ったが、じっとロイを見つめるだけだった。
「…君といたいんだよ。エド」
ロイは笑って、もう一度繰り返した。小さな手をきゅっと握りなおして。
「………ロイ…」
ややあって、エドは照れくさそうに目を細め、小さく呼んだ。
「…。オレも、ロイといると、楽しい。…ロイといるの、スキ」
頬を染めて嬉しそうに言う子供に、ロイもまた微笑む。
「あのな。…オレ、…本当はエドワードっていうんだ」
「…エドワード」
「うん、そう。…でも長いし、皆エドって呼んでたし。だからエドでいいんだけど、…ロイには、言おうって思ってた」
照れくさそうに、けれどやはり嬉しそうに言う子供に、ロイは瞬きを数度繰り返す。そして、何度か教えられたばかりの名前を繰り返す。
エドワード、と。
口にするたび、子供はくすぐったそうに笑う。それが嬉しくて、ロイは何度もその名前を呼んだ。
まるで、大事な恋人の名前を呼ぶように、そっと。
新皇帝の治世は、先代から続く山積した多くの問題を抱えての出発だった。それだけに難関も多かったが、概ね問題なく統治しているものと考えられていた。取り立てて民草の不満が多かったともいえないし、政治の腐敗も、手の施しようがない程とまでは行かなかった。
しかし、それでも王朝の命数は尽きるのだ。
初めからそう、定められていたかのように。
「…反乱?」
諸官からの報告を受けていたロイの許へ、朝議だというのも承知の上で割り込んできた役人がもたらしたのは、そんな報告だった。
地方から始まった反乱は瞬く間に国内を飲み込み、今や禁軍の旗色は芳しくない。防衛線は日々塗り替えられ、危機は刻一刻と迫っていた。
「…危ないかもしれない」
子供の柔らかい膝に頭を載せたまま、ぽつりとロイは呟いた。彼の耳を掃除していたエドは、上から不思議そうに「何が?」と問い掛けた。
「反乱が起こっているんだ。…ああ、後宮の中ではまだ内密に頼む」
無用な混乱を起こしたくない、とロイは先に言った。
「ロイはオレがそんなに口軽だと思ってるんだ」
「そういうことじゃない。ただ、つい口が滑って、ということがあると困るだろう」
「…そりゃそうだけど。…あ、こっち終わったぞ。反対側向いて」
ん、とぞんざいに答えながら、ロイはエドの腹の方を向く。そして、彼の膝から小さな顔を見上げる。金髪に縁取られた秀麗な容貌を。
「…不思議なものだな」
「…?」
「私は…別に皇帝の位に恋々とするつもりはないんだ。元々なりたくてなったわけでもないし」
「………」
「だがなったからには、それなりに後世に名の残る皇帝になる予定だったんだがなあ」
「ばか」
エドは小さく笑って、ロイの額を軽くたたいた。ロイはそれを受け、ただ笑った。
「…不思議だよ、本当に。…皇帝にならなければ、君と会うこともなかった」
「…そりゃ、…まあ、そうだろうな」
「…エドワード」
いつか聞いた本当の名前を、ロイは静かに口にした。そして、あどけない頬へそっと手を伸ばす。
「一緒に、いてくれるか?」
今更何を、と笑い飛ばそうとして、…ロイの存外真剣な目にエドは黙り込む。なんだか冗談とは違う空気を感じた。
「……ロイ…?」
幼い顔がただ不思議そうにしているのに、ロイは笑う。そして軽く半身を起こした。寝台の上、エドの頬に手を置いたまま、彼は向かい側でじっと座っていた。
「…意味が、…わからないか?」
「……? 意味って…なに…」
この言葉に、皇帝は――困ったように笑って、両手でエドの前髪をかきわけた。そして、あらわになった額に、触れるだけの口づけをする。
「………ロイ……?」
エドは片手を上げて、覚束ない手つきで口づけられた部分を撫でる。
「……。…あの…オレ、…男なんだけど…」
「知っている」
「……。えっと…、えっと…?」
「知っているが、その上で言っている。一緒にいてくれるかと、聞いている」
ロイは怒るでもなく、ただ淡々と告げた。そのことに、エドの目はますます大きく見開かれていく。
「最初に言ってくれたのは君だけどね。…私はそれとはすこし違う意味で言っている」
「…え…だ、…ロイ、何言って…」
少年は笑おうとして失敗した。
出会った時よりはさすがに大人びてきたが、それでもまだ丸みを残すあどけない頬が痛々しいくらいだった。
…そんな様子を見れば、急ぎすぎたか、と思ってしまうくらいに。
「―――考えておいてくれ」
ふ、とロイは表情を緩めると、ぽんぽん、とエドの頭を撫でた。そしてがらりと口調を変え、話題も変えた。
「ところでエド、小腹が減らないか?何か用意させよう。待っていていいよ。私が持ってこさせる。食べたいものは決まっているし」
本当は彼に仕える后という立場にあるエドがすべきことだが、何しろロイは変わり者なのだ。そんな理屈が彼に通じるわけもなかった。
エドがえっと思っている間に彼は房を一端出、回廊の少し離れた所に控えていた宦官に夜食の準備を命じるのだった。
それからしばらく、ロイはエドの房へやってこなかった。
ロイが来ないと、エドはすこぶる暇である。
さすがに皇后なので侍女もつけられたが、男だとばれても困るし、元々、貧しい育ちである。誰かに何かしてもらう、というのは、…まあ大分慣れはしたが、落ち着かない部分もある。
ロイが後宮の一角に書庫を作ってくれたので、大抵はそこで日をつぶす。
でなければ、最初同室だった縁で、他の女性よりは親しいマリア達とお茶をしたりもする。だがこれは頻繁とは言いがたい。
「…そういえば…」
最近ロイ来ないな、とぼんやり思いつつ錬金術書を何気なく繰りながら、不意に、エドはかつてロイに近づくなと言った女性のことを思い出した。
彼女は何だったのだろう。あれほどの美貌なら妃のひとりとなっていてもおかしくはないと思うのだが、彼女の姿は、エドが皇后に選ばれた前後からまったく見ていない。
「…。リザさんて、どこ行ったんだろ?」
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ