雲のように風のように
冷たい感じの、近寄り難い印象は確かにあったが、エドは彼女のことが嫌いではなかった。何だかんだで背が高く目立つ美人だった彼女は、家柄のおよろしいご令嬢達に難癖をつけられる場面も多々見受けられたのだが、大抵歯牙にもかけずあしらっていた。そういうところはいっそ見ていて爽快だったくらいなのだ。
だから、エドは彼女が嫌いではなかった。
「――ここに」
「…っ?」
と、突然背後から声がしたもので、エドは驚いて本を取り落としてしまった。
「…どうぞ?」
そんなエドにまったく頓着することなく、音もなくいつの間にか書庫に現れた女性は、エドが落とした貴重な本をすっと拾い上げ、差し出した。
「…リザ、さん…?」
呆然と目を見開いて自分を見ている皇后に、リザは小首を捻ることで本の存在を示す。
「あ。…あ、ごめん…ありがと」
それでエドも慌てて本を受け取った。
そうすれば、リザはうっすらと口元に微笑を浮かべる。きれいなひとだな、と不意にエドは思う。
…どうして、とも思う。この人がお后ならきっと何の問題もない。美人だし、大人だし、何より女性だし、それにロイとは知り合い…、
…知り合い?
「…危ないから近づいてはいけないと言ったのに」
困った子ね、とでも言いたそうに、彼女は目を細めた。しかしその口調とは裏腹に、はしばみ色の瞳にたたえられた色は随分とやさしい。
「…あの人もあの人ね。こんな風に大事なものを作っても、守りきれる気でいたなんて…」
「……リザさん?」
独り言のように呟く彼女の言葉は意味不明だったが、直感的に、今彼女が語っている「あの人」とはロイのことなのではないか、と思った。
「…。今すぐ、支度して頂戴」
「え?」
実情はともかくとして、エドは、一応は皇后である。そのエドにこんな風に高圧的に命じる人間など、この国にはほぼ皆無である。
エド自身はその身分にそこまで順応しているわけでもないので、特に今のリザに対して反発を覚えることもなかったが、それでもおかしいな、くらいのことは思った。
そしてようやく気付いたのである。
彼女が、女官の衣装ではなく、男性の…、武官のそれに身を包んでいることに。いわゆる男装の麗人というやつである。その姿は水際立って美しく、凛々しい。
似合うかどうかは二の次としても、本来であればその服装を纏う側の性別である自分が女性の…、しかも皇后という、女性としては国内最高位の者が纏う華美な衣装に包まれていることを考えると、なんだか皮肉な取り合わせであった。
「…詳しく話している時間がないの。今すぐ、ここを出るわ。逃げられるように、動きやすい格好に着替えて頂戴」
「…逃げる?」
小さく繰り返したエドに、リザは困ったように溜息をついた。
「…順次、解放してはいくつもりのようだけれど。…陛下は、あなたをとにかく一番に、安全なところへと」
「…? 安全?」
「…。今、反乱が起こっていることは知っていて?」
動かないエドに諦めたものらしく、リザは、ぽつりと問いかけた。
――反乱…、
エドはその単語に、金色の大きな目を瞠った。
聞いた。確かに。この耳で。
『危ないかもしれない』
ロイが、言ったのだ。反乱が起こっていると聞かせてくれたのはロイだ。
そして陛下もロイのことである。そのロイが、…ロイが?
「…どういうこと…」
「…。近いうちに、王都まで反乱軍が殺到する。その前にあなたを逃がしてくれと、言われたわ。私はあなたを一応の避難場所へ落ち着けるまでの護衛を――」
「…どういうことっ、それ…!」
きっ、とエドは自分より背の高い女性を睨み上げた。怒っていた――ロイに対して。
『一緒に、いてくれるか?』
ぎり、手を堅く握り締めた。ああ言ったのに。一緒にいようとしないのは、誰なのだ。
「…私はあの人の、腹違いの妹にあたるの。といっても、母親の身分が違うから、私は皇室には数えられないのだけれど…」
わなわなと震えるエドに、リザはぽつぽつと語り始めた。
「母も、周りの人も顔をしかめたけれど――私は武芸を身につけ、あの人の役に立つことを決めたの。後宮には皇帝以外の男性は入り込めないから、ここで命を落とす皇帝も多いわ。だから、私はここへ来た」
「……いもうと?」
いつだったか、その単語をロイが口にしたことがある。そう思いながら、エドは顔を上げた。リザは瞬きもせず、ただ静かな顔でエドを見ていた。
「…はらちがいの妹は他の人よりは仲がいいって。…ろ…陛下、が言ってた…」
それはまだ、エドが宮女見習いな后妃候補で、ロイを皇帝とは知らずにいた頃のこと。ある夜の、他愛無い逢瀬の時のこと。彼はそういう風に聞かせてくれたことがあった。
「…あれ、…リザさんのこと?」
「…そうね…どうかしら…。…ただ、あの人にある程度の信頼はされていると思うけれど」
でなければ、と彼女は不意に目を和ませた。
「…一番大事なものを任されたりはしないと思うわ」
「…一番…大事?」
「…さぁ、おしゃべりはここまで。房に戻って」
それ以上は教えることは出来ない、と彼女はエドの背をそっと押した。
「…もう、すぐに出るの」
「…。今夜出るわ」
「…。ろ…陛下は、…もう、会えないの?」
「…どうかしらね。…出発の時間は、夜。…明け方近く。今から支度だけはしておかなくては」
エドは、きゅ、と唇をかみ締め、それ以上は何も言おうとしなかった。
気丈に耐える姿に、リザはほんの少し痛ましげに目を細めた。
元々私物のないエドであったから、リザに急かされるまでもなく、支度はすぐに終わった。動きやすい服装、については、リザが少年用の平民の服を用意してくれていたので、それで事足りた。
元来、それこそがエドの普段身に着けるべき服装であったから、違和感などはない。
…そうして、その日の晩のことだ。
このままロイに会うことなくここを離れるのか、とエドは暗い気持ちで寝台の上膝を抱えていた。明け方に出発するから早めに寝るように、とリザには言われていたが、とても眠気が訪れる気配はなかった。といって、いつものように書を読む気にもなれない。
鬱々としながら、エドは、出会ってからのロイのことをとりとめもなく思い出していた。
最初は、怪しい奴だと思った。不逞の輩かと。だがそれが、同じ錬金術師で、貴重な文献を惜しげもなく見せてくれた。…そして時には、彼の錬金術を見せてくれた。
魔法のような。あの暖かい焔。それを、忘れたことはない。
存外子供っぽい面や、人懐こい笑顔や、ワガママで変わり者なところ、楽しい話をしてくれるところ、それから、それから――
『一緒に、いてくれるか?』
「……っしょて…ったのに…」
ぎゅうと膝を抱えて、その天辺に頭をうずめると、回廊から小さな音がした。
早く寝なさいと言われている手前、明かりは既に落としている。それでも、その音…、恐らく誰かの足音なのだが、それはエドの房を目指しているように思えた。
エドは、膝を抱えたまま、そっと顔を上げて外をうかがった。
作品名:雲のように風のように 作家名:スサ