その後
何となく穏やかになった兄の気配を察したのか、シルヴィスはまた彼が思うままに奔放に話を始めた。
バラクーダがこの彼岸の世界に辿り着き、シルヴィスと巡り合えてから、その時間を生前と同じ基準でどれくらい経ったか、知る事は難しかったが、それでも相応の時が経過しているだろう。
地獄への路が開き、二人をいつ招き寄せてもおかしくはない。
今しばらく兄との安らぎの時間をと、まるでそう訴えるかの如く、シルヴィスは色々な事をバラクーダに語りかけた。
バラクーダももう止めない。
……子供の時ににいさまから生まれた日を祝われた事。
大昔に天帝の領内のどこぞの村を幾つか根絶やしにした時に、数日前から空腹を訴え続けていた紅蓮が、まるで小僧のように大口を開け天帝に従っていた愚かな村人達の魂をぱくぱくと腹一杯に貪り喰っていた事。
バラクーダに稽古を付けて貰った時は、結局一度も勝てなかった事……
どれも全て他愛のない二人の生前の思い出話であり、シルヴィスはそれらを時折、遠くを見るような眼差しをしながら一つ一つ話していた。
子供の時から戦いの最中に斃れるまでの出来事。
その一通りの話を終え、シルヴィスはじっとバラクーダを見詰めた。
弟は生前ではあまり見る事のなかった平静を保った、穏やかな表情をしている。
それにこの美貌の者からの視線を一身に受ける事は悪いものではないと思い、バラクーダもまたシルヴィスを見詰め返す。
僅かの間の後、あっと、何かを思い出すようにシルヴィスが呟いた。
「どうした」
「にいさま、気配が何だか優しくなった。」
「……優しくなった、とは何だ。」
「嬉しいな。だからかな……今にいさまを見ていたから。それで思い出した事があるんだ。」
そう切り出したシルヴィスが、始めはぽつりぽつりと話し始めた事は、
―…遥か幼き日に一族の者から伝え聞いた一つの口承。
時は誠に遥か昔。後には共に先代を討った二人にも、その父王を頼りとしていた非常に幼い頃があった。
その時の、もういつかは分からない程の過去の記憶。
ひどく久し振りに父と面会し、長くそうしていなかった父子の団欒の時を過ごす……そう言った予定の一日であった。
しかし父達の包囲により半月程前に降伏した某国との緊急の会談と、その後の会食により父子の一時は先へと流れた。
更に父は自らの後継者として兄弟に晩餐に参加せよと命じる。
会食と後の宴にどういう顔が並ぶか。それらを探る為にバラクーダは勝利の宴には積極的に参加したが、幼いシルヴィスはつまらないとむくれ、不満気な顔をしていた。
直ぐ後に宴は遅くまで続く、だから今は暫し眠っておけと父王の使いからの言伝があり、眠くはなかったが二人は仕方なく床に入った。
共に一つのベッドに入る。それが何のやましい意味を持たなかった。
それ程二人が幼く、無垢であった頃に。
ごねる二人に語りかけて来た者は誰であったか、そう確か……先代の血縁で若き日には戦場を駆け勇名を轟かせていたが、後にある戦でひどく負傷し戦えぬ身となった。
この時には既に老境に差し掛かっており、何よりこの体ではもう自分達に取って替わろうとする野心を持ち向かって来る事もなかろうと判断した父王の計らいにより、時折バラクーダ達に会い、諸々の心得や薀蓄を面白く味を付けて語り伝えていた老人、そいつの話であった。
―…それは架空かもう一つの現実か。
我等とは似て非なる彼方の世界で
何も出来ぬ矮小な人間達が住まう星を守る者達がいた。
彼等人に似て人に非ず、人を超えた力を与えられ人を守護す。
星を防る者達。
彼等は一度別れ、長き時を経て再度相会った。
内の一人。凍てついた黒き彼方の地に留まる非情の星の心を捨てた防人。
また一人。森の帳の中で眠り続ける緑の地の、白ばらのようなうるわしの防人。
狂い始めた非情の男、そして二人は酷な再会を果たしてしまった。
幾ら涙を流しても彼は戻らない。私が想ったやさしき人、
いとおしきいとおしい彼は……ならば己が身を彼に捧げんと。
そうして緑の地のうるわしの防人は男を止め、命を捨てた。
冷酷の星の防人は心を戻し、しかし微笑みかける事も、愛を紡ぐ事もなくなった物言わぬ白ばらの前で自らの視界をその両の目もろとも絶ったのだ。
ただ血涙がとうとうと流れ……
ああ、彼は彼をどれ程強く愛し、彼は彼の死をどれ程嘆いただろう。
冷たきモノの体に熱き情念を抱いた者達よ。―…
話はそこで終わり老人はこう呟いたものだった。
『最後に、ふたつは兄弟でした』
黒き星の防人、緑の地の防人。
バラクーダとシルヴィスの声が意図せずに重なり、その結末を締めくくる。
「……変なの」
口承の兄弟達を考えていたのだろうか。またどこか遠くを見るような眼差しでシルヴィスが呟く。
「いつかは忘れたけれど、すごく昔の子供の頃に聞いた事。思い出したんだ、この話を……にいさまの顔を見ていたら。」
「……」
弟が、急に思い出したかのように語り始めた、
ひどく幼き頃に伝え聞いた一つの口承。
配下達を率いる身として、バラクーダは(弟が直接関わるやりとり以外は)聞いた情報が不要であれば全て忘れ去る性質となっていた。
しかし長き時を経て弟の口から再度聞き得たこの……たった一つの口承は彼の記憶に残っていた。
いや、甦って来たのだ。
話を最後まで聞いて。いや、これも違うか。
……バラクーダは言わなかったが、彼もまたシルヴィスの顔を見詰めていて、急速に。
弟の顔を見て思い起こした口承。
そしてこの話が幽かな記憶の片隅に残っていた理由は、もう一つあった。
それは……
無言のままのバラクーダの思考を遮り、シルヴィスが口を開く。
「何だかこの話、妙に記憶に残ってね……そして、後から聞いたんだ。“どっちが兄でどっちが弟だったのか”って。」
「ほう」
彼のように語り手に問いかけたのではないが、バラクーダは漠然とその答えに感づいていた。
「そうしたら、黒の星の方が兄で白ばらは弟だって。」
「そうか」
「あのさ、にいさま。……僕はね、白ばらを馬鹿だと思っているよ。」
「……」
「僕だったら、自分から命を捨てるなんて、そんな事はしない。しがみついてかじり付いて……どう思われても生きて、愛した者と一緒にいる。
……愛しているなら一緒にいれば良いのに。」
お前は白ばら……弟の方を罵るのかと、愚痴をこぼすシルヴィスを横目に、バラクーダは思う。
バラクーダは少し違った。
その麗しの男とやらは余程気狂いとなった男を想っていたのであろう、だからこそ自ら命を断ったのだ。それは美しき事ではないかとバラクーダは思う。
シルヴィスの横槍で思考が途絶えたが、バラクーダがこの口承を何とはなしに記憶に残していた理由。
心を捨てた男、……兄の方がバラクーダの心に引っ掛かっていたからであった。
(……その男が気に入らなかったからだ)
心を捨てたのなら想う者への情念ごと何故断ち切らぬのだと、
弟を手に掛け尚先を歩み生きる、そうである以上決別してしまえ、と。