For the future !
「凛本人も失敗したってわかってたんだろうな。だから、ターンしたあとにスピードが落ちたっていうか落としたんだろうし、抗議もしなかった」
過去に、国際大会のバタフライの予選で日本代表選手のターンが片手タッチだったとして失格になり、しかし、抗議が認められて、その選手は決勝に進んだという例もある。
「あのタイムだったら決勝には行けなかっただろう。でも、失格よりは、な」
たった二枠しかない日本代表に選ばれて、多くのひとびとから期待されての、失格だ。
批難される覚悟をしなければならないだろう。
「凛は……?」
「控え場所にいるんじゃないかな」
そう答えた先輩選手に軽く頭を下げると、遙はその場をあとにした。
レースや公式練習を行うメインプールほうへは行かず、控え場所のあるほうへと向かう。
気が急いて、歩く足はどんどん早くなった。
しかし。
控え場所に行き、コーチと話している凛の姿を見た瞬間、選手村で偶然聞いた凛の恋愛スキャンダル記事の内容が耳によみがえってきた。
巨乳アイドルとか、お泊まり愛とか、熱い夜とか。
昨夜、凛は、おまえは俺を信じねぇのか、と言った。
それなら信じられる材料を出してほしいと思う。
確実な証拠は凛がその巨乳アイドルを抱きかかえるようにして彼女のマンションに入っていった写真だけなのだろう。
そこから先は、凛が言ったとおり送り届けただけで部屋にあがることもなかったのか、記事に書かれているらしい熱い夜をすごしたのか、わからない。
今の状態は白でも黒でもなくグレーだ。
信じたい。だが、もしかして、と思ってしまう。悪い想像をしてしまう。
これまでの付き合いがあるぶん、じゃあ、あのとき自分に言ったことは、自分にしたことは、なんだったのかと思ってしまう。
裏切られた気分になってしまう。
だが、今はそんなことにこだわっている場合ではない。
凛が男子バタフライ100メートルの予選で失格となった。
もともと凛は精神状態が泳ぎに直結するタイプだ。自分の恋愛スキャンダル記事が出たことに動揺しているのだろう。それに、昨夜の遙の対応のせいもあるだろう。
落ち込んでいるだろう凛を立ち直らせたい。
そう思う。
けれども、遙は動けなくなった。
どうしても嫌悪感が先に来て、動けない。
今は無理だ。今でなければ、もう少し時間がたてば、自分も落ち着いてうまく対処できるかもしれないのに。
ふと、何気ない様子で凛が遙のほうを向いた。
眼が合う。
凛の表情がすっと鋭くなった。問いかけるような眼差し。
遙は喉に言葉が詰まった気がした。
今の自分は凛に対してなにも言えない。声をかけることができない。
遙は眼をそらした。
続けて、踵を返した。
凛に背を向けて歩き出した。
練習を終えたあと、遙はふたたびバスに乗って選手村にもどった。
国際区域にある食堂で食事し、それから居住区域にある日本選手団用の宿泊棟に移動しようとして、やめた。
睡眠不足なので部屋にもどって身体を休めたほうがいい気もしたが、凛と相部屋なので、今はまだ凛と顔を合わせたくないと思った。
特に買いたい物もなく国際区域の記念品ショップに行ったり、住居区域にある緑に囲まれた広場のベンチに座ってぼーっとして時間を過ごしたりした。
やがて、日が暮れてきた。
ようやく遙は部屋にもどることにした。
日本人選手団用の宿泊棟へと歩く。
宿泊棟に入り、エレベーターのほうへ行くと、ちょうど来ていてドアが開いていた。
しかし、ドアは閉まろうとしている。
遙は歩く足を速めた。
すでにエレベーターに乗っている者が近づいてくる足音に気づいたらしく、閉まろうとしていたドアが開いていく。
遙はエレベーターに乗った。
「すみません」
ドアを開けてくれたことに対しての言葉をかけつつ、操作盤のまえに立っている者のほうに眼をやった。
そして、驚く。
凛だった。
こちらのほうを軽く見た凛も、驚いた表情をしている。
ドアが閉まった。
エレベーターが上昇し始める。
乗っているのは自分たちふたりだけだ。
凛が眼をそらし、その眼を操作盤のほうへやった。さらに、凛は操作盤の階数ボタンを押した。
押されたのは、遙と凛の部屋のある階だ。
自分がやってくるまえから凛はエレベーターに乗っていたのにまだ階数ボタンを押してなかったのかと少し妙な気がして、遙は操作盤を見た。
押された証拠として光っているボタンは遙と凛の部屋がある階だけではなかった。屋上階のボタンも光っている。
あ、と遙は胸のうちで声をあげた。
つまり、凛は屋上階に行くつもりで、しかし、遙が乗ってきたので自分たちの部屋のある階のボタンを押したのだろう。
なにも言わず、遙のために。
遙は凛がいるのとは反対側に立った。
凛のほうは見ない。凛もこちらを見ていないだろう。
おたがい黙っている。
しばらくして、自分たちの部屋のある階に着いた。
ドアが開く。
だが、遙の足は動かなかった。
凛の手があげられた。開ボタンを押す。その眼は操作盤のほうに向けられている。なにも言わない。
遙の足が動き出した。ドアが開いた先にある廊下へと進んでいく。
凛は無言のまま、こちらを一切見ずに操作盤に顔を向けたまま、開ボタンを押し続けている。
遙はエレベーターから廊下に出た。
背後でドアが閉まる音がした。
作品名:For the future ! 作家名:hujio