For the future !
遙は自分を含めた七人の選手が割り当てられているユニットのほうへと歩き、やがてそのドアのまえまで行き着いて、中に入った。
静かだ。
自分の他にだれもいないようだ。
遙は二人部屋に入ると、バッグを床に置き、ベッドに腰かけた。
そして、どうしても凛のことを思ってしまう。
遙がおりたあとのエレベーターは凛を屋上へと運んだだろう。きっと、凛はしばらくこの部屋にはもどってこないだろう。
今、凛はどんな気持ちでいるのだろうか。
遙は床へとおろしている足をベッドのうえへと引き上げて、膝を立て、そのうえに腕を置いた。左手のうえに右手を交差させるように重ねる。
顔を伏せ、右手首に左頬をつけて眼をつむる。
どんな気持ちでいるか、なんて、わかりきったことじゃないか。
最悪な気分に決まってる。
週刊誌に恋愛スキャンダル記事が載り、日本代表に選ばれて出場した国際大会のレースで失格。
遙は両方の手のひらを拳に握った。
どうしてこんなことになったのだろうかと思う。
どうして今、自分はここにいるのだろうかと思う。
なぜ、自分は、凛のそばに行かない。
行きたくないからだ。
でも、もし、自分と凛が友人のままであったなら、こんな気持ちにはならなかっただろう。友人として、うまく励ませないかもしれないがそれなりの対応ができただろう。
昨日、凛から恋愛スキャンダル記事が週刊誌に掲載されると聞いたときだって、そうだ。友人であったなら、動揺している凛を落ち着かせる対応ができたかもしれない。もしそうだったら、凛は今日の男子バタフライ100メートルの予選で泳法違反というミスを犯さなかったかもしれない。
関係を変えなければ良かった。
悔やむ。
ふと。
音がした。
部屋のドアがノックされる音。
「凛、ハル、ちょっといいか?」
このユニットの別の二人部屋に宿泊している選手の声がドアの向こうから聞こえてきた。
「はい」
そう遙は返事して、ベッドから離れた。
ドアが開き、選手が入ってくる。遙より年上で、遙よりは少し背が低く、しかし、遙より肉付きがいい、短髪の選手だ。
「凛は?」
その選手は自分の正面に立った遙から視線を外して、遙の向こうにある部屋の中を探すように見る。
「……まだもどってきていません」
たぶん屋上にいるだろう。そう思ったが、遙はそこまでは言わなかった。
「そうか」
選手の眼が遙をとらえ、それから、またその視線は遙から外された。なにかを深く考えているような表情をしている。
「ハル」
そう呼びかけると、選手の視線は遙の顔へともどってきた。
「おまえは、たぶん、あーゆーのは見ねぇだろうって思うが……」
妙に、歯切れが悪い。
なんのことかと思いつつも遙は黙っている。
静かな、しかし問うような眼差しを、正面に立つ選手に向ける。
「凛のスキャンダル記事」
読んでない。
読みたいとは一切思わない。
そう遙は思った。心に食い込んでくるほど強く思った。
「あれについての、ネットでの書き込みが結構ひどい。今日の予選での失格についても、な」
「……」
「凛はパンパシで金取って、すげぇ人気出ただろ。異常なぐらいキャアキャア言われるようになって。それがさ、今、手のひら返したみたいになってんだ」
「……」
「チヤホヤされていい気になってるからだ、とかさ」
いっそう歯切れが悪くなった。
選手は遙から視線を外し、その眼を伏せた。
おそらく、もっとひどいことがたくさん書き込まれているのだろう。
さすがエロカッコイイスイマー!
今朝の選手村で遙のまえを歩いていた日本代表選手がそう言ったのを思い出した。
「俺は凛がチヤホヤされていい気になっていたとは思わねーよ」
「……」
「でも、世間ってさぁ、テレビに映ってないところとか知らねぇし、すごい持ちあげたものを、いきなり、すげぇ落としたりするだろ。今、ホントにそんな感じ」
「……」
「アレを凛が読んでなけりゃいいけど」
自分と親しくない、自分について詳しくもない相手に、どう思われようが、かまわない。外野がどう言おうが、かまわない。
そう遙は思う。
だが、それは自分のことだ。
自分と凛では受け止め方が違う。自分が気にしないことを凛は気にするかもしれないし、逆に、凛が気にならないことを自分は気になる場合もある。
「……俺はこのあと、二階のテレビで、他のヤツらと決勝見るつもりだ。ハル、おまえも来るか?」
しばらくどちらも黙っていて、いきなり選手が話題を変え、遙に問いかけてきた。
遙は口を開く。
「俺は……」
頭を軽く左右に振った。
「ああ、明日、100フリーだもんな。おまえは早く休んだほうがいいか」
「はい」
「おまえ、金メダル期待されてるからな」
短髪の選手は明るく笑って言うと、身体の向きを変え、去って行った。
遙は視線を落とし、ドアの近くに立ったままでいた。
頭上に広がっている空は墨色に染まっている。
風が少し吹いている。
それを感じながら、遙は屋上を歩く。
前方には凛の背中がある。
広い背中。
よくきたえられた背中だ。
凛は屋上を縁取るようにある鉄柵のすぐそばに立って、そこから遠くを眺めている様子だ。
止まっている凛と、歩いている遙。距離はどんどん縮まっていく。
凛の近くまできた。
胸に、少し嫌な感情がわいた。遙はわずかに顔をしかめて、その感情を押しつぶす。
それから、凛の隣に立った。
もちろん凛は自分の隣に遙が来たことに気づいただろうが、なにも言わず、遠くを眺め続けている。
遙も同じようになにも言わずに鉄柵の向こうを眺める。
おたがい無言のまま、時が過ぎていく。
そして。
ふと。
「……パンパシでの金」
凛が遙のほうを見ないまま、ボソッと、ひとりごとのように言う。
「まぐれ金だって言われそうだな」
遙は凛のほうを見た。凛の顔に表情は浮かんでいない。
まぐれ金。
まぐれの、金メダル。
そういう意味だと理解すると同時に、遙の胸にカッと来るものがあった。
「まぐれなんて、ない」
強い声が出た。
「絶対に」
国際大会で金メダルをまぐれで穫るなんて、ありえない。
厳しい練習を積み重ねて、勝ちとることができるものだ。もちろん才能や時の運にも左右されるが、才能だけ、運だけで、手にすることができるものではない。
でも。
遙は思い出す。
俺は凛がチヤホヤされていい気になっていたとは思わねーよ。
この屋上に来るまえに聞いた台詞。
テレビに映っていないときのことまで知っていれば、同じ意見になるだろう。だが、知らなければ、凛がチヤホヤされていい気になっているように見えるのだろう。
練習中の凛の自分の限界ギリギリまで挑むような努力する姿を知っていれば、いい気になっているとか思わないだろうに。
身近にいるわけじゃない。だから、見ていない、知らない。
だから、しかたない。
そう思う。
でも。
くやしい。
くやしい、と思う。
自分らしくない感情かもしれないが。
凛が遙の強い声に引きつけられたかのように眼を遙のほうに向けた。
しかし、遙のほうに向けられた顔にあるのは、無表情。
その顔から、なにを考えているのか、なにを思っているのか、読み取れない。
少しして、凛は遙から眼をそらし、ふたたび、鉄柵の向こうを見る。
「……なっさけね」
ぽつんと凛が言った。
作品名:For the future ! 作家名:hujio