For the future !
それから、その眼が伏せられた。
泣くのかと遙は思った。
しかし、凛は眼をあげた。
遙のほうを向く。
顔だけではなく、身体ごと向いた。
その凛の立っている姿を遙は見る。
凛は泣き虫だ。だが、すごくつらい状況であるはずの今、凛は泣いていない。
それとは真逆の表情をして立っている。
そして。
「同じ失敗は二度としねぇ」
鋭い眼差しを遙に向け、凛は断言した。
そんな凛を遙はじっと見る。いや、見ようとして見ているのではなく、眼が離せないでいる。
遙が静であるとするなら、凛は動だ。
そして、遙が水であるとするなら、凛は火だ。
そんなふうに、自分たちは対照的だ。
自分と凛は違う。そんなことはわかっている。あたりまえのことだ。
しかし、今、あらためて強く感じた。
自分とは違う。
異質なもの。
まるで炎。
だから、眼が離せない。
きっと今、凛の中でなにかが燃えている。
怒りか。スキャンダル記事に動揺して国際大会でミスをして失格となった自分に対する怒りか。
そして、決意か。二度と同じ失敗はしないという決意か。
つらい状況にあって、それでも立ち向かっていこうとする決意か。
凛の中で燃えている。
強い光と熱気を放つ炎。
眼が奪われて、離せない。
これが、松岡凛。
今さらでバカみたいな話だが、あらためて認識する。
自分の知っている凛は泣き虫でロマンチスト。
だが、同時に、凛は夢の実現のために小学校卒業後にたったひとりで言葉の通じない異国へ旅立つ勇気と挑戦心を持ち、日々の努力を自分に課して怠らない。
今、遙の眼のまえにあるのは、凛の中にもともとあったもの。
それでも、驚かされる。
再認識して。
それに、凛は少し変わったように感じる。以前なら落ち込んだのをもっと引きずった気がする。
「……明日、100フリーだな」
さっきとは違って落ち着いた声で凛は言う。
「部屋にもどるぞ」
息をするのも忘れたかのようにただじっと見ている遙に向けて凛はそう告げると歩き出した。
凛が離れていくのを見て、我に返り、遙も歩き出す。
ふたたび凛の横に並んだ。
けれども、いつもより少し距離を空けた。
そのことに凛は気づいているのだろうか。気づいていなければいい。
「ハル」
ふいに凛が呼びかけてきた。
「明日、手ぇ抜くなよ」
明日の男子フリー100メートルで手を抜くな。
そういう意味だろうとわかって、なぜ自分がそんなことを言われたのか遙は不思議に感じた。
問いかける視線を凛に向ける。
凛は眼が合うと、その眼をそらした。
少し間があってから、凛は遙のほうを見ないまま口を開く。
「おまえ、昨日の夜、ちゃんと寝たか?」
「……」
昨夜、凛が部屋から出て行って、それからしばらくして帰ってきたとき、遙は凛に話しかけられたくなくて眠っているふりをした。
狸寝入りだとバレていたのかもしれない。
あのあとも、眠ろうとしてもなかなか眠れなかった。
はっきり言って、寝不足だ。
遙は眼を伏せた。自然に歩く足は止まっていた。
「ハル」
また、凛が呼びかけてきた。
「俺はおまえに嘘は言ってねぇ」
真摯な声。
「今すぐは無理だが、証明できる」
「どうやって」
遙は眼をあげ、鋭く問いかけた。
凛はその遙の視線を受け止め、見返してくる。
「俺が相手を部屋まで送ったあとすぐにマンションから出てきたのを知ってるひとがいる」
それは、だれだ。
遙は考える。
そして、思いついた。
「カメラマン」
出した回答がいつのまにか口からこぼれ落ちていた。
凛がアイドルを抱きかかえるようにして彼女のマンションに入っていく写真を撮ったカメラマンは、凛が彼女を部屋まで送っただけの時間でマンションから出てきたのを見ていたはずだ。もちろん、それは凛が遙に言ったことが本当なら、だが。
でも。
「知っていても認めるはずがない」
凛がアイドルのマンションからすぐに出てきたことを知ったうえで、お泊まり愛という記事を出したのだ。
すぐに出てきたのを見ていただろうとこちらが言っても、向こうはマンションに入っていく写真を撮影してすぐにその場を離れたから見ていないとしらばっくれることができる。
「そうだな」
あっさりと凛は肯定した。
つまり、凛の想定内。
じゃあ、どうするつもりなんだ?
遙はふたたび考え、そして、ハッとする。
「まさかおまえ、殴り込みかけるつもりか……!?」
「しねーよ! そんなこと!」
即座に凛は言い返してきた。
それから、凛はため息をついた。
「今回の件で、俺はおまえから信用されてねぇのがよくわかった」
軽くにらむように凛は遙を見た。
その態度に、遙はカチンと来た。
「高二の地方大会で自分がなにをしたのか忘れたのか?」
「殴り込みかけんのとゴミ箱蹴っ飛ばすのとを一緒にするんじゃねえ」
「ゴミ箱を蹴っ飛ばしたあとのことだ」
「あれは……! 俺が本気だったら、おまえボコボコにされてたぞ!」
「どうだかな」
冷静そのものの声で遙が言い返すと、凛は言い返したくても言い返せないらしくてくやしげに口を引き結んでいる。
とは言え、あのときの凛が本気で遙を殴るつもりではなかったことを、遙はわかっていた。凛が本気だったら、ボコボコにされていたかどうかはわからないが、あの程度では済まなかっただろう。
つい思い出した。
あのあと、遙に馬乗りになった凛が見せた泣き顔。
ぐしゃぐしゃに崩れた、みっともない泣き顔。
「……おい、ハル、おまえ、なんか変なこと思い出してねーか?」
「可愛かったな、あのときのおまえ」
「ぐはっ……!」
凛は妙な声をあげた。
「な、なに言ってんだ、おまえ、そんなワケねぇだろうがよッ」
どうやら恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないようだ。
そんな凛の手が伸ばされてきた。
あ、と遙は思い、かすかに息を呑んだ。
凛の手がおろされた。
「……おまえ、昨日、俺のこと気持ち悪いって言ってたもんな」
気まずい。
「今もそうなんだろ? 俺に触れられるのがイヤなんだろ?」
そう凛に問いかけられて、しかし、遙は黙っていた。
否定したいところだが、否定して、もし凛が自分に触れてきたらと思うと、否定できなかった。
「それでも、おまえ、ここに来たんだな」
凛は続ける。
「明日、100フリーがあるからだろ」
遙が、そして凛も出場する男子フリー100メートルのレースがあるから。
このまま黙っていることもできる。
だが、遙は口を開いた。
「いろいろ考えたんだ」
関係を変えなければ良かった、とか、いろいろ。
「考えて、考えて、最後に一番強く思った」
その想いが、自分をここに来させた。
「こんなことで、おまえをつぶされてたまるかって」
凛がさっき言ったとおり、今も自分は気持ち悪いとどうしても感じてしまう。
自分がこんなに潔癖だったとは知らなかった。
好きだからとか、信じたいからとかで、信じるというのは違うと思う。だが、信じきれないでいる自分に驚かされた。冷静に対応しようとしても湧いてくる嫌な想像と感情に困らされた。信じきることの難しさを思い知らされた。
しかし、凛をこんなことでつぶされたくないという気持ちもある。
松岡凛をつぶされたくない。
その気持ちが自分の中で一番強かった。
だからこそ、遙はここに、凛がいる屋上に来た。
作品名:For the future ! 作家名:hujio