伊角の碁
伊角慎一郎という人2
「あ、500円」
自販機前で小銭を落とした奴がいた。それを見ていた伊角が呟いた。
「なにが?」
「ほら、落としただろ。500円玉」
自分たちより年上のプロ棋士を目で指して、伊角は続ける。和谷はあきれて頭を掻いた。
「わかんねーよ、普通」
自販機設置場所と自分たちが立っているエレベーターホールまででは、小銭のサイズを判別できるような距離じゃない。
「え、分かるよ。音でさ」
「……前々から思ってたけど、伊角さん、むちゃくちゃ耳いいよな」
都内は雑音で溢れているというのに、伊角はとてもよく音を拾っていたことを思い出す。
たとえば、電気屋の前を通り過ぎた後に「あのCM、面白いよな」とか。たとえば、女子高生の会話をもれ聞いて笑い出したり。
和谷はもちろん気がつかないから、伊角のそんな様子にいつも「へ?」とか「なんだよ」とか、呆れたり呆けたりで忙しい。
「結構普通だと思うけどな」
「どんな普通だよ」
小銭が落ちた音を聞き分ける聴力が、普通の人のレベルであるはずが無い。和谷の否定に首を傾げるなんて伊角らしいが、たまにこの人の常識レベルが大丈夫か心配になる。
なんというか、とても子供っぽい。
まあ、そこが伊角の可愛いところなのだが……。なんて、本人に言ったら、これまた可愛いとしか言いようがない怒り方をするのだが、ともあれ。
「それだけ耳がいいと、ネモ船長に喜ばれるな」
ちょっと前に見たアニメを思い出し、和谷は笑う。案の定、伊角は分からないという顔になる。
「ネモ船長……って、『海底2000マイル』の?」
「あ、意外。伊角さん、知ってるんだ」
「有名な小説だろ。知ってるさ」
笑って答える年上の人。
残念ながら、和谷の見たのはアニメで小説ではないが、カッコ悪いのでこの際黙っておく。
「潜水艦に乗って、魚雷発射音とか聞き分けれるぜ?」
「そうだな。棋士でなくなったら、そっちに転職しようか」
そうして笑っていると、エレベーターのドアが開いた。