伊角の碁
プロローグ
「お疲れ」
待ち合わせ場所は、いつものマック。
伊角さんは先に来ていたらしい。テーブルの上には、ドリンクと食べかけのポテトが乗っている。
「……悪い。待たせた」
「いや、オレが早く着いたんだよ。和谷、何か食べる?」
「いらない」
選抜戦が終わった後、会おうなんて約束なんてしなきゃ良かった。そんな思いがつよくて、まともに彼の顔が見れないでいた。
そんな内心を知ってか知らずか、伊角さんは笑いかける。
「そっか……。なあ、和谷、ちょっと歩こうか」
返事を待たずにさっさと立ち上がると、飲みかけのジュースを一気に飲み干す。出口と向かう伊角さんの背中を、なんとも言えぬ気持ちでオレは見ていた。
「負けたよ。越智に」
「代表は、進藤と越智に勝った社って奴だ」
「情けないよな、一緒にプロ試験受かったのにさ」
出会ったら、そう言うつもりだった。
だけど、伊角さんの顔を見たら何も言えなくなった。
悔しさに、口を開けば涙が溢れそうだったから。
人込みを抜ける間、どちらも口をきかずにいた。
まっすぐに進む伊角さんの背を、オレは何も言わずについて行く。電車に乗って向かった先は、自分のアパート。
「……ここのほうが、落ち付くだろ?」
扉の前で、伊角さんはちょっとだけ照れくさそうに笑う。
多分、この人は自分が負けたことを察しているのだと気づく。
何もない、もの静かな室内。伊角さんが入れたコーヒーの匂いに、なぜか涙が溢れてきそうになる。
「……和谷はさ。まだ若いし、これからいくらでも時間があるだろう? 悔しい時は泣いていいんだぞ? オレだって、プロ試験に負けたときは、悔しくて悔しくて……」
不意に語り始めた伊角さんの声は、不思議と耳に優しかった。
「泣いたよ。泣いたら、スッキリした。自分の不甲斐なさとか、いろいろ思い出されて仕方なかったけどな」
照れくさそうに、頬を掻く。きっと、オレを慰めているんだと思う。だけど。
「……オレ、才能ないのかな。進藤にも、越智にも勝てないっ。プロでなんてやってけないんじゃないのかっ?」
ずっと思っていた不安が、口を突く。
分かっている。この世界では、実力がなきゃ上には行けない。
一緒のプロ試験に受かったからって、同じレベルとは限らない。
……自分はダメじゃないかと、不安で押しつぶされそうになる。
膝の上で握り締めた拳が、白くなっていく。ただ、それだけを見ていた。
そんな時だった。
「乗り越えよう、和谷。今は不安かもしれないけど、和谷だって、あのプロ試験に受かったんだ。大丈夫」
頭上から降る、優しい声。オレは温かい腕に抱きしめられていた。
「成長するスピードは人それぞれだ。和谷だって、ここで諦める気はないんだろう? だったら、オレと一緒に頑張ろう。今は、迷ってもいいし、泣いてもいいから」
背中を撫でる手は、まるでオレをあやしているようだ。それも、情けなくて、悔しい。
「ただ、和谷。負けを認めるなら、今すぐにでもプロを辞めたほうがいいぞ?」
悔し涙が零れそうになった時、耳を打った言葉。その単語に、怒りがこみ上げる。
とっさに腕を振り払うと、怒りに任せてコーヒーカップを投げ付ける。
「馬鹿野郎っ! 伊角さんでも言っていい言葉と悪い言葉があるぜ!! オレは、プロ棋士だ! 絶対っ、負けるものか!!」
悔しいやら腹が立つわで、言葉がうまく出ない。頬を伝う涙が、どんな感情をもっているのかも、分からない。ただ、「オレの碁」はまだ負けていないんだ。それを、この人も分かってくれていると思っていたのに、酷く裏切られた。それが悔しい。
「……その意気だよ、和谷。お前の強さは、俺も十分知っている。お前なら、ちゃんと答えが見つけられるさ。オレが中国で見つけてきたように、さ」
コーヒーカップを頭にぶつけられたのに、伊角さんは笑った。
茶色く染まったシャツに、俺は我に返る。
「……ゴメン」
「いいさ。でも、着替え貸せよ?」
「ん。だけど先に銭湯行こうぜ」
「ああ、いいよ。帰ってきたら、今日の碁の検討、しようか?」
「うん。しようぜ。そうだ、泊まってく?」
「泊めてくれないつもりだったのか? 検討はじめたら、深夜までかかるぞ」
「伊角さんなら、いつでも歓迎だよ」
いつもの、オレと伊角さんの空気が戻った来る。
後になっていつも思う。伊角さんはいつも、オレを甘やかす訳じゃないけど、言い意味での逃げ場をくれる。
だから、負けたくないんだ。この人にも、進藤たちにも。