伊角の碁
日本人は桜が好きだとよく言うけれど、和谷は桜が好きではない。
どうしてと聞かれたらかなり困るけれど、とにかく嫌いだ。もしかしたら、花見と称して騒ぐ大人が嫌いだったのかもしれない。
だが、早々に大人の世界に足を踏み込んで、門下……早くいえば派閥のような、な付き合いにも振り回される毎日。
「和谷も付き合えよ」
なんて言われたら、嫌ですとは言えない。
救いは、兄貴分の冴木や同期の進藤がいることだろうか?
「でも、さ……」
桜の下での宴会に、和谷の一番居て欲しい人はいない。
彼も九星会のメンバーや、何とかと言った引退したプロの門下達と飲んでいるんだろう。
囲碁界は案外狭いようでいて、広い。
手合いでいいから会いたいのに、会えないなんてことはザラだ。
携帯を取り出すと、ボタンを押した。
今はこれが精一杯。
今度遊ぼう。いつが暇?
愛してるぜ!
メールを見て苦笑する。
誰がいつ、自分の携帯を見るか分からないんだから、あまり人に見られて困るメールは送るな。そう常々言っているのに。
「愛してる、か」
この言葉を貰う度、なんともいえない気持ちになる。気恥ずかしさと嬉しさなどがごちゃ混ぜになった感じだ。
「コラ慎ちゃん! 携帯見ながら笑わないのっ」
隣に座る桜野が派手に伊角の背中を叩く。
「痛いですよ、桜野さんっ」
「なによー。ニヤニヤしながらメール見てたくせにっ」
あちこちで程よく酔った人たちの、楽しげな笑い声が聞こえる。
彼女もまたかなり酔っているらしい。頬が染まっていて、いつにも増して陽気だ。
「恋人から?」
「ナイショです。あ、そろそろ俺抜けますね」
そそくさと桜野の前から逃げ出す。でないと、なにを聞かれるか分からない。
花見の喧騒から逃げ出して、暗い道端でもう一度携帯を取り出す。
画面はまだ、和谷の言葉が残っている。
今晩遊びに行くよ。
俺も好きだよ。
打ち終わったメールを見て、妙に照れた。
迷ったけれど、それでも送信ボタンを押す。
このメールを和谷が見たらどんな顔をするだろう?
そんなことを思いながら、伊角は和谷のアパートに向かって歩きだした。