彗クロ 5
5-5
西アベリア平野最大都市ベルケンドは、最新鋭の譜業都市との触れ込みだったが、馬車が到着したのはどうということもない普通の港町だった。だから、ちょっと妙だとは思っていたのだ。
「うぜぇ……街が分離してるとか、ちょう、うぜぇ……」
中枢街への街道をよろよろ辿りながら、レグルは据わった目でぜぇはぁぼやいた。背中に負った『大荷物』のおかげで、足取りはひどく覚束ない。
内海の西南端に拓かれたベルケンド港は、波止場と桟橋と市場、あとの大半は倉庫で構成されていて、機能的かつ生活感が薄かった。住宅地や都市としての主要機関は、港の南西、海岸線から少し奥まった内陸に固まって存在するらしい。港からは立派な街道の先に微かにシルエットが見えるかどうかというくらいだから、できれば馬車が欲しい距離だ。……本来ならば。
「しょーがないじゃん、譜業に潮風はタイテキだもん。メンドーだしコーリツは良くないけどね。ダアトだってこんな感じだよ~」
斜め後ろでお気楽徒手空拳のフローリアンが暢気に言った。レグルはじろりと視線を流して睨みやる。
「てんめぇ……」
「なぁにー? じゃんけん五連敗したレグルっくぅん♪」
「くッ、そが……っ」
「ごめんなさいねぇ、坊や。おばあちゃん、重いねぇ」
『大荷物』がレグルの耳元で、申し訳なさそうに囁いた。結構な年齢の、どことなく品の良い老婆である。あまり声を張れないようで、ふわふわと間延びして聞こえる声音だ。
「坊――っ、……いや、ババアが謝ることじゃねーよ。安請け合いしたアゲイトのせい! アイツ、他人事だと思いやがって……」
一瞬色めき立ったレグルも、毒気を抜かれてごにょごにょと矛を納めた。
この老婆をベルケンドの医者に届けること。それが、アゲイトの課した『善行』であった。
老婆は古くからのベルケンド住まいだという。今日は漁師になったばかりの孫息子の初船出の日ということで、朝早くから港まで見送りに来ていたそうだ。そこで年甲斐もなく張り切りすぎたか、無事の出立を見届けて気が抜けたのか、したたかに腰をやってしまったらしい。
港にも簡易の診療所はあるのだが、せいぜい問診と簡単な外科的処置ぐらいしかできない。そもそも健康的な海の男ばかりを相手にしている船医見習いたちには、老婆のぎっくり腰は少々手に余る。病状が病状ということもあって安静にさせるしかなく、しかし日の出ているうちに街に帰したほうがいいのも事実だった。とはいえ老婆一人きりでは馬車に乗せるのも難しい状態だ。付き添いを出すにしても、孫息子は長期の航海で戻らないし、港の人々もそれぞれの仕事で忙しい。
そこで、白羽の矢を立てられたのがレグルたちだったというわけだ。善意の第三者として老婆を街の病院に運び込めば、港の組合に恩は売れるし、医師の心証もかなり好転するだろう、というアゲイトの悪知恵である。……見ず知らずの老婆の身柄をぽんと預けられる信用といい、複数の状況を自己の都合の良い形へ即座に組み立て直す辣腕といい、あの男は実際相当にタチが悪い。
かくて、街道を老婆背負ってえっちらおっちら徒歩でベルケンドに向かうレグルとフローリアンであった。正確には、街路樹十本分進むごとにじゃんけん交代制を導入しているのだが、今のところフローリアンの剛運に負けっぱなしのレグル一人が割を食っている格好だ。
老婆は小柄なほうだったが、野生児といっても十三歳、それも平均を若干下回るレグルの体格では、さすがに負担が大きい。足運びは怪しげで、老婆の腿を支える腕には早くも痺れの兆候が現れ始めている。こういうときの目的地は、ようやく手の届きそうな距離に見えてからが長いのだ。限界が来る前にたどり着けるかどうか……街の手前で限界を迎えたとしても、その時、年少者に大荷物を任せっきりにしておいて罪悪感の欠片もおくびにも出さない斜め後ろの男に素直に助力を請えるか否か……かなり自信がない……
「港と街が離れているのは、何も譜業ばっかりのためじゃぁ、ないのよ」
なんとも朗らかな調子で老婆は言った。年寄りの長話の始まりか。レグルはうんざりして相槌も打たなかったが、老婆はまるで気にした様子もない。
「海の近くに街を造ってしまうと、いざというとき、大波が心配でしょう。このあたりは土地が平らで、丘とか崖とか、水を堰き止めるようなものがないから。大きな街ほど、なるだけ内陸に置くものなのね」
「大波って津波? でもあれって、地震のせいで起こるんだよね? このへんって火山とかあったっけ。チカクヘンドー由来のやつはここ二千年起きてなかったはずだし、セフィロトもたいして近くないし……」
フローリアンが首をひねった。ダアトは世界随一のザレッホ火山を擁するため地震の多い土地柄らしく、さすがそのへんのことには明るいようだ。
「このあたりは、地面が揺れることは滅多にないわねぇ。大波は、星が海に落ちたあとに来るものだって、おばあちゃんは教わったねぇ」
「星ぃ?」
「あ、わかった。譜石だ!」
思わず胡乱に目を眇めるレグルとは逆に、フローリアンは目をまん丸に見開いた。
「音譜帯から譜石が落ちてくることがたまにあって、落ちどころが悪いとすっごい災害になるって習った! 譜石はコウノウドの音素を帯びてたりするから、その組み合わせとか比率とか譜石自体の大きさによっては、深ーい海の底に落ちたとしても、すんっっっっっごい遠くの海岸線にまで余波が押し寄せたりするって」
「そうねぇ。だから、漁師たちは星が落ちるのを見たらすぐに陸に引き返すし、時によっては港も三日三晩閉めちゃったりするわねぇ」
「……大げさじゃね?」
「そーでもないって。バチカルのでっかい亀裂、見たじゃん? アレなんか大昔の譜石の落下痕だって言われてるし。あんだけの大穴あけちゃうよーなエネルギーと衝撃だもん、けっこー怖いんだよ?」
「フーン……譜石ねぇ」
興味も薄く、レグルはしらけた上目遣いで空を見上げた。
青空にうっすらと浮かび上がる奇妙に幾何学的な八線譜は、音譜帯と呼ばれる。七種からなる音素の振動層が重なり合っていて、ぐるりと惑星(オールドラント)を包み込んでいるのだという。層と層の境目が、地上から見上げると美しい曲線を均等に並べたように見えるのだ。そこに、いくつもの結晶状の飛び石が不規則に浮かんでいて、あたかも空そのものが楽譜のように見える。
あの結晶体が譜石。預言の副産物だとかなんだとか、ようするに前時代の置き土産らしい。あれが地上に降ってくるという話は、聞いたことだけならあったが、何十年に一度とか、そういうレベルの現象らしく、当然ながらレグルがお目にかかったことはない。生まれたときから見慣れた空の模様でしかないそれに、疑問やら恐怖やら警戒心やらの何らかの感慨を抱けというのは、少々難しい話だった。
***
カチコチと秒針の音がする。大小色形千差万別な歯車たちが、時にはガラス窓の向こうで、時にはむき出しの姿を誇らしげに主張しながら、ひとつの欠落も噛み違いもなく、忙しかったりのんびりだったり、それぞれのペースで休みなく回り続けている。