彗クロ 5
5-2
何もない田園の中心に、その怪物は忽然と現れた。空中に五連の譜陣を視認した直後にはもう、あらゆる物理法則を押しのけるようにして、脈絡のない巨体がそこに生じていた。
(物質転送――!?)
五連譜陣の内訳は、この状況下では解読できそうにない。しかし、これだけの非常識な現象を引き起こしておきながら、知覚に一切の予兆をもたらさなかった音素の正体は明白だ。アゲイトには第七音素の素養がまったくない。
第七音素の究極形――〈超振動〉が可能とする不可能のひとつに、長距離空間跳躍があったはずだ。
「まずいな……」
御者台を降り、怯える馬たちをなだめながら、アゲイトはひとりごちた。黒い毛皮、深紅に光る装飾帯、見上げるほどの巨躯。初見ではあるが、符合する知識はあった。
ベヒモス――この魔物は、通常の方法では討伐できないという報告が上がっていたはず……
「――んな……ッにアレーーーー!?」
馬車の傍らで凍りついていたフローリアンが、思い出したように沈黙を切り裂いた。遅れて幌を出てきたらしいレグルは、魔物を見上げてぽかんと絶句している。
反射的な後悔がアゲイトの脳裏をちらついた。つい、道中魔物に出くわした時のノリで習慣的に子供たちを呼び出してしまったが、今回ばかりは相手が悪すぎる。致命的といっていいミスだ。
玻璃が砕けるのにも似た音が、脳裏にきらびやかな余韻を引く。思わず二人を振り返っていたアゲイトは、はっとして魔物に視線を返した。
砕け散った五連譜陣が描く美しい残像に彩られながら、背を向けていた魔物の顔がゆるりとこちらを向く。
肩越しに見開かれた禍々しい赤が、いまだ茫洋とした殺意を悠然と編み上げ始めたのを見取り、アゲイトの手は自ずと銃把の底を押し込み譜銃を起動させた。
――腹を据えるほかない。今度は子供たちを見返ることなく、抑制した声音で問いかける。
「レグル。ルークは?」
「っえ、あ、――うっ動かせる状態じゃねぇよッ」
「そうか」
まずいな、ともう一度胸中にこぼす。レグルの否定には、咄嗟ながらに強硬な庇護意識がにじみ出て いる。おおかた毎度の自閉症状だろう。……タイミングが最悪だ。
ルークが単体で超振動を発動できることは、デオ峠でライガの死体を消滅せしめた件で確認済みだ。同じレベルを今のレグルに要求するのは酷だろう。よしんば超振動がどうにかなったとしても、対となる大譜歌までこの場に揃えることはまず不可能。となれば、採れる選択肢は限られる。
「……よし、街道からアイツを引き離そう。レグル、手綱の扱い方は覚えてるね?」
「お、おう。……えっおいまさか」
「僕が囮になって誘導するから、ほどよく離れたところでフローリアンが背後から奇襲。僕らが引きつけてる間にレグルは馬車を動かして、一気に湿原を西に抜けるんだ。ここの地形なら、外に出ればあの図体は追ってこれない」
「っ、なんでオレだけ――」
「君はルークを守らないと。出口で落ち合おう。いいね?」
「~~~~~っわぁったよッ!!」
やけくそ気味にレグルが御者台に乗り上げる気配を聞きながら、アゲイトは街道の横合いに伸びる農道に下り、ベヒモスの眼前を堂々と走りだした。フローリアンの軽快な足音が抜かりなくついてくる。
「マジ倒すの? アレを?」
背後からのひそめた声音はやけに冷めていた。可能か不可能か、無謀か否か、そのあたりの判断の早さと容赦のなさはさすがのレプリカだ。司令塔としての力量を測られているような心地がして、アゲイトは小さく苦笑した。
「とりあえず引きつけられれば上等、ってとこだね。馬車を逃がすのが最優先。退治できればそれに越したことはないけど、はっきり言って僕の仕事じゃないし。少しでも苦戦する感じなら積極的に離脱しよう」
「刺激して放置すんだ。レグル怒りそー」
「そこはお守り(ルーク)の効力に期待するしかないね。――そろそろいくよ。足下に気をつけて」
「りょーかい」
上空からの視線を意識しながら、農道の十字路で二人は散開した。アゲイトはそのまま直進、フローリアンはベヒモスの懐に潜り込むルートだ。
目につく獲物が二手に分かれたことで、ベヒモスはそぞろに目線をさまよわせた。……どうも反応が鈍い。本能的に人間を敵と見定めてはいるようだが、その気迫は聞きしに劣る。冬開けの寝ぼけ熊(ベア)でも相手にしているような手応えだ。野生のそれでは……ない?
わずかな逡巡を覚える。どのみち駆除するしかないにしても、こちらから仕掛けるべきではないのではないか。実際、事を起こしたところで最終的には自治区の警備に始末を押しつけることになるわけで、状況が状況だとはいえできることなら避けたい選択肢ではあるのだ。だが、悠長に足止めされているわけにもいかないのも事実。何より馬車の安全を最優先とするならば……
考えているそばから、軽鎧の警備兵たちが四方からぱらぱらとベヒモスの足下に集い始めた。ベヒモスの集中力はさらに散漫になる。さらに間の悪い一人が、よりにもよって街道に止めた馬車のすぐ傍らで、気合いとも悲鳴とも知れぬ奇声を発した。
その瞬間、ベヒモスの殺意がひとつのベクトルへと急速に絞られていくのがわかった。
アゲイトは一切合切の思考を削除した。両腕が無機的に銃口を上方に向けて構え、無造作に引き金を引いた。音素の白い輝きがベヒモスの横っ面に容赦なく着弾する。
怪物は、わずかに体躯を揺らし、低く唸った。痛みと理解がその凶相に滲み出すより早く、二発、三発、さらに一拍置いて四発と、寸分狂いのない追撃に、太い首が斜め上に傾いだ。
絶妙に嫌らしいタイミングでの断続的な攻撃は、おそらくは起き抜けだろうベヒモスの癇を、的確に刺激した。鈍く濁った赤の凶眼の中央で、白い瞳孔が不穏に燃える。寸隙、静寂。
グルァァッ――
ひといきに伸び迫った馬蹄は、想定していた速度の中でも最速だった。紙一重でアゲイトが飛び退いた地面が、土塊を盛大に散らして穿たれた。
心臓が浮くような跳躍の感覚の中で、知覚が時を緩やかに捉える。交差する獣の手足の隙間に覗ける街道を、馬車が急発進していくのが見えた。第一段階クリア。ここからが正念場だ。
足裏が地面の感触を捉えた即座に体勢を立て直し、続けざまの連射。厳密に狙いをつけるまでもなく、音素の弾丸は怪物の巨体に吸い込まれるように余さず的中する。
怪物は浴びせられる一撃一撃に不機嫌そうな唸りを漏らしながら、全身の毛を逆立て始めた。憤怒が、憎悪が、第一音素の黒く澱む靄となって、毛皮にまとわりつくように可視化する。
禍々しい黒が怪物の輪郭を覆い隠すほどに濃度を増した頃、アゲイトは田園の中頃で小高い丘のようになった閑地にたどり着き、ようやく指を休めた。銃把の底を掌で再度押し込んで音素を調整しつつ、油断なくベヒモスの出方を窺う。
怪物の憎悪は、今や破裂せんばかりに膨れ上がっている。あと一撃……いや、それすら必要ないかもしれない。
アゲイトは慎重に銃口を持ち上げた。黒い靄の向こう、怪物の眉間に向けて。
白い銃身が絶妙な日射角を拾い上げ、瞬間、まばゆいほどに輝いた。