彗クロ 5
5-3
ガオォォォ……ン
銃撃と激突音に怪物の咆哮が混ぜ合わさったものが、巨大な音のひとかたまりとなって盆地にあまねく響き渡った。四方をぐるりと囲む断崖状の山々が、大音響を水平方向に逃がさず、幾重幾層にも反響させて鼓膜を攻撃してくる。
地の底から天空へと駆け上がっていくような、あたかも惑星(ほし)の苦鳴の如き異様な迫力に、馬たちがすくみ上がって嘶いた。レグルは慌てて手綱を捌くも制御しきれない。馬車は全速力を維持したまま危うい蛇行を繰り返し、とうとう街道脇の側溝に片輪を取られて急停止した。首がもげるような衝撃に思うさま揺さぶられながら、レグルは馬の尻にかじりついてなんとか凌いだ。
「くっそ……」
レグルは悪態つきながら、御者台から乗り出して後方を確かめた。左側面の車輪が、前後両輪とも三手幅程度の用水路に見事に嵌まり込んでしまっている。
原状回復は無理だ。素早く判断して、レグルは幌の中に頭を突っ込んだ。
「ルー――ッ!?」
馬車を降りるように促そうとして、息を呑んだ。薄暗い視界のどこにも、あの赤がない。
積み荷の迷路は存外大きな変化もないように見えたが、もしかしたら見えない所が雪崩を起こしていて、そこに生き埋めになってるなんてことも……血の気の引いていく音が、内耳に直接聞こえた気がした。
慌てて御者台から立ち上がった瞬間、衝撃と鈍い激突音が鋭角の風をレグルの背中に吹きつけた。
何事かと振り返ると、再び浮き足立つ馬たちの向こうで、こんもりうずたかい飼い葉の小山が半ばで大きく陥没し、空中に向けて人間の足を生やしていた。僧服と胴着をちぐはぐに着込んだ奇矯な服装の主は、ほじくり返して確かめるまでもなく明らかだ。
「フローリアン!?」
「むー、むむー、ふんがーむぐー! んぐぐぐぐ……――ぶはっ」
突き出た手足がじたばたと暴れもがいたかと思うと、飼い葉の中から弾け出るようにフローリアンの顔が現れた。水から上がったチーグルのようにぶるぶると顔を振って、全身にまとわりつく草くずごと、形のない漠然とした悪寒を懸命に払い落とそうとしている。
「っっあーーー死ぬかと思ったッ! ちょっと思った以上にヤバイってコレ……」
服をはたく動作は必要以上に忙しなく、大きすぎる独り言の、余裕のない語尾は、いつになく緊迫を孕んでいる。
げっそりとした視線を辿れば、こちらに向けて蹄を突き出した形で静止している怪物がいた。完全に背を向け、見返ることはせずに、しかしその腕はちょうどフローリアンが突っ込んできた軌道の角度に差し向けられている。……空中での攻防が一薙ぎのもとに断ち切られた、その瞬間が見えるようだった。
怪物の正面ではアゲイトが絶え間なく銃撃を浴びせている。しかし着弾の衝撃にも慣れたのか、怪物は意に介さない。ゆるりと巨体を返し、水田を無惨に踏みつけながら歩き始めた。フローリアンの方へ――すなわち、馬車が立ち往生している目と鼻の先に向けて。
「やっばい……!」
フローリアンは背筋をそそけ立たせた。あわあわと飼い葉に埋もれた尻を救出しようともがくが、均衡した形状を失った干し草の集合体は捉えどころなく、力を加えるほどに散逸していく。しまいには思いも寄らぬ方向へと雪崩を起こして、フローリアンは情けない悲鳴を上げながら小山の反対側へと真っ逆さまに姿を消した。
「……っの馬鹿ッ!」
レグルは御者台から飛び出した。鯉口を切りながら街道を駆け、砂煙を引きつつ急停止、フローリアンを背に庇う位置で怪物と対峙する。鞘から刃を引き抜く感触が、動悸を速める。
はっきり言って、思考は混乱していた。本当はすぐにでもルークの無事を確かめたかったが、体は目前の危機に駆けつけずにはいられなかった。どうすればいいのか、どれが一番正しいのか、咄嗟の答えがない。そうしたらもう、直感に従う以外にどうしようもない。
流れに負けて構えた刃の、ぞっとするような黒光りが、かえって諦めに近い覚悟を心臓に押印する。
レグル、無理だ、逃げろ――間断ない銃撃のなか叫ぶアゲイトの声が、ひどく遠い。
黒い刃の切っ先の直線上。怪物の、緩慢にさえ思える足運びが、不意に止まる。そいつは荒々しい呼吸に合わせて上下していた肩を、背筋を曲げるほどに下げた。グゥォウウゥゥ……腹に気合いを籠める唸りが、湯気となって凶暴な牙の隙間から漏れ出す。わずか、静寂。
――次に轟いた咆哮を、レグルの脳はまともに記憶しなかった。ただ、大音声。音が質量を持たないことが不思議に思えるほどの、暴力的な蹂躙だった。
あとわずかでも続けば聴力を失っていたかもしれない。けれど怪物の声はあまりにも唐突に途切れた。天へと伸び反らされた隆々たる胸筋が一息に縮み、軋むほどに前傾した背中が一面の毛皮を逆立たせる。
勃然と、音素が迸る。毛皮を這う装飾帯よりもさらに鮮やかな、輝く真紅の輪。星々のいくつかが纏う屑輪のように、あるいは天球儀を忙しなく巡る衛星の公転軌道のように、野太い首まわりをゆるやかに周回し始める。
それは明瞭すぎる殺意の発露。
レグルの思考は空っぽになった。遠ざけていたはずのたったひとつの感情が中身を満たした。呼吸を忘れ、視線をはずせぬまま、よろめくように一歩、足が下がる。冷たい汗が噴き出し、カチカチと、奥歯が不快な擦過音を立てる。
怪物が、濁った紅が、自分を見ている。アイツを攻撃したのはレグルではないけれど、きっとアイツはフローリアンとレグルの違いなんてわかっていない。理解していたって、きっと気にしない。目の前で息をしているものすべてが敵。
(――ころされる)
残酷なまでに逃げ場のない確信だった。
滑り落ちた汗に、脇差しの柄がじわじわと摩擦と感触を失っていく。素手の中でしっくりと捕まえきれず、まるで暴れたがってでもいるかのように……
――トゥエ レイ ズェ クロア リョ トゥエ ズェ――
……歌、だった。わらべ歌のような、素直で、暖かな旋律。背中から覆い被さるようにレグルをめいっぱい包み込んで、全身に染み込んでくる。懐かしさがあふれ、緊張と恐怖にこわばったなにもかもをほぐしていく。喉が開いて、呼吸が楽になる。
レグルは目を細めたまま、ぼんやりと、懐かしさの行方を辿った。
「ルーク……?」
唐突に、体が動いた。
歌に背を押されたようだった。突き放されたのではない。勇気づけられたのとも違う。今この時に選択すべき方角へと教え導かれた、そんな感覚だった。
無理なく、気負わず、ひどく自然に――気づいた時には、レグルを丸呑みに喰らわんとする怪物の鼻先が目の前にあった。横薙ぎに払いきった刃には、確かに、生皮を一閃した如実な感触が残っている。
グォォォゥッンガァッ……ァァアアァァッッッ
怪物が激しく身をよじらせた。憤激の咆哮とはあきらかに違う、苦悶に満ちた抑揚は悲鳴に近かった。馬蹄では傷口を抑えることもできず、前肢は不器用に宙を泳ぐばかり。
たったの一撃、返り血すらレグルに届かない、鼻先をかすめた程度の切り傷……にしては、いささか大袈裟に過ぎる反応だった。そしてそれが、怪物にとって致命的な隙となった。