かじみちぱらだいす
お見送りのあと
国立高度医療センターを去って行く天堂総長を見送ったあと、病院スタッフたちはその余韻の中にいた。
そこから加地はそっと離れてオペ室へと向かう。
オペ室では神原晶の手術が行われている。
非常に難しい手術だ。
……大門でも、さすがに。
そう加地は思い、表情を陰らせた。
同じ外科医だからこそ、どれぐらい難しい手術なのかわかっている。患者は手術適応外とされる状態なのだ。元医者だったらしい神原晶本人も無理だと判断し未知子に失敗させたくなくて手術を断ったそうだ。
加地の歩く足は次第に早くなり、いつのまにか手のひらを拳にして強く握っていた。
しばらして。
廊下の前方から未知子が歩いてきた。その表情は硬い。
「大門!」
加地は話しかけながら歩く速度をいっそうあげた。
「オペ」
どうだった、と加地は続けようとして口を閉ざした。歩く足も止まった。
加地のほうを向いている未知子の顔がぐしゃっとゆがんだからだ。
ああ。
加地は喉が締めつけられたような痛みを感じた。
オペがどうなったのかわかった気がした。
未知子は加地の視線を断ち切るように眼をそらした。その眼からこぼれた涙が頬をつたう。
それでも、未知子は廊下を進む足を止めない。
こちらへと近づいてくる。
足を止めたままの加地との距離が無くなる。
加地は身体に軽く衝撃を感じた。
未知子がぶつかってきたのだ。
それを加地は受け止める。
加地はなにか言おうとして、やめた。
失敗したのか、なんて聞きたくない。
難しい手術だったんだから、しょうがない。そう思う。けれど、しょうがないなんて言うべきじゃない、きっと。
結構長く生きてきて経験もいろいろと積んできたはずなのに、こんなときにどんな言葉をかければいいのかわからない。
そういえば、未知子と出会った帝都医科大学付属第三病院でも似たようなことがあった。
未知子の知り合いらしい六坂という名の患者が特別室に入院した。肝門部胆管ガンだった。術前カンファレンスで加地は切れないと判断した。十五時間以上かかる大手術で患者の身体がもたないと判断したからだ。しかし、未知子は自分なら六時間でやると言って、執刀医は未知子に決まった。
けれども結局、六坂は亡くなった。未知子が失敗したのではなかった。手術するまえに亡くなったのだ。未知子が事故で運び込まれた患者の緊急オペをしているあいだのことだった。その緊急オペの少しまえ、未知子は特別室で六坂と話をしたらしい。六坂は元気に笑っていたそうだ。
そのとき特別室に一緒にいた看護師から加地はそれを聞いて、なぜだかいてもたってもいられない気分になって、未知子を捜した。
未知子は食堂の外のテラスにいた。手術着のまま立っていた。
その隣に加地は立ち、六坂のことを聞き、しかし未知子から返事がなくて、なんとか言えよと言ったり、未知子があと三日早く手術をしていれば、悔しい、と言ったのに対して、慣れてるだろと言ったり、本当にろくなことが言えなくて、最終的には無言でただ朝の街を眺めていた。
自分を情けなく思う。
加地は腕をあげた。
その手を未知子の背中へとやる。
言葉をかけることはできない。なにをどう言えば、その心を癒やせるのわからないから。
でも、受け止めたい。その悲しい気持ちも、涙も受け止めたい。
そして、体温が伝わってほしい。生きている者のぬくもりを感じてほしい。
ここにいるから。そばにいるから。
責めないから。
なにがあっても、俺はおまえの味方だから。
この気持ちが伝わってほしいと思いながら、抱きしめる。
ふと。
「……良かった」
未知子がぽつりと言った。
へ?と加地は思った。
さらに未知子が言う。
「成功して、良かった」
「えっ!?」
驚いて、加地は未知子から少し離れた。
「オペ、成功したのか!?」
「うん」
「じゃあ、なんで泣いたんだよ!?」
「ほっとしたら、なんか涙が出てきた」
さらっと未知子は答えた。
加地はその顔をじっと見て、それからふたたび口を開く。
「まぎらわしいんだよ!」
さっき勘違いしていろいろと思ったのが気恥ずかしくて、それを打ち消すように声を荒げた。
「失敗したのかと思ったじゃねぇか!」
未知子はきょとんとした顔をしている。
少しして、未知子は軽く笑った。
「そんなわけないじゃない」
からかうような眼を加地に向けている。
さらに未知子はなにか言おうとする。
加地はそれがなにかわかった。
だから。
「「私、失敗しないので」」
ふたりの声がぴったりと重なった。
加地は笑う。
笑っている未知子の顔を見る。ほっとしたら、なんか涙が出てきた。さっきの未知子の言葉。嘘泣きしたわけではなかった。未知子にしても怖い手術だったのだろう。そして、加地と会って、張り詰めていた緊張の糸がやっとほどけたということか。
自然に身体は動いた。
お互いの唇が重なった。
「加地先生と大門先生、あんなところであんなことして見られてもぜんぜんかまわないってことなんでしょうか?」
「加地君と大門君、いつからそういう関係に……!?」
「海老名部長、そんなに眼を見張って驚かなくても。あのふたりは第三病院時代からアヤしかったんですよ」
「そうなのか!?」
「はい。ただし、そのころから今までずーーーーっと進展はしてなかったんですが」
「海老名部長、なぜそんなに驚いていらっしゃるんですか? 加地先生と大門先生がお互いを意識し合っているのは、見ていてとてもわかりやすくて、それなのにふたりとも自分の気持ちに気づいていなくて、周囲はイライラさせられるぐらいだったのですが?」
「師長!」
「ハイハイ、お三方、見てないで帰りましょうね」